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ハンセン氏の秘蔵作品展 (オードロップゴー美術館のコレクションから) [Paris  展覧会]

以前、コペンハーゲンに行った時、行ってみたかったのが、「オードロップゴー美術館」だった。
でも、コペンから10kmという郊外の森にあるので、遠い!と同行の友達に拒否されてしまった。
オードロップゴー美術館は、保険会社で富をなしたハンセン氏が亡き後、美術コレクションがある
邸宅を国に寄贈、美術館となったのである。庭も屋外彫刻があり快適だそう。企画展をするための
新館は、国立競技場のコンペで話題になったイラク出身の女性建築家ザハ・ハディドの設計。
カフェレストランは国立新美術館と同じくPaulが入ってるとのこと。

オードロップゴー美術館のコレクションは、フランス印象派とデンマーク人作品だが、今回、
パリに来たのはフランス印象派。全部で40数点。そのうち14点をご紹介。


1、風景画コローからシスレーまで
端正に描かれた絵。いつものコローとは違う。
「マントの橋」1850~1854
コローがMantesに滞在時の1842年、行政官Robert氏から自邸に飾る
3枚パネルの依頼を受けて描いたうちの一枚。明るい光を浴び、青空の下のマントの橋、水、
木々、左手前の女性の立ち姿が風景画を一段高めている。

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シスレー 「ビランクールでの川舟の荷おろし」1877年


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ピサロ 「エラニーのプラムの木の花」 1894年
足を止めて見つめてしまう。白いプラムの花が美しい。背景のレンガの建物に映える。
他の絵に比べて大きめのサイズだったので、写真も大きくした。


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モネ 「グレーの空のウォータールー橋」 1903年
モネは1900年から1904年の間、42枚のウォータールー橋を描いている。
川に浮かぶ船の交通、工業化がすすむロンドンの煙突の煙などを青、緑、グレー、所々
にピンクの点で表現し、筆のタッチを分割することによって、霧の立ち込めたロンドンの
風景の雰囲気を出している。

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2、静物画 
マネ 「洋梨の入った籠」 1882年
シンプルで、グレーと緑の色のハーモニーが良いと、ハンセン氏は気に入っていた。

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マティス 「花と果物」1909年
フォーブの時代のあと、マティスはダンスシリーズのような装飾的な絵に変わった。
セザンヌ風の果物、花の色と形は不規則で、幾何学的に引かれた背後の線に対抗している。

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3、写実絵画 クールベとバルビゾン派


ドーヴィニー 「穏やかな海、グレーの時間」 1894年
ハンセン氏は印象派に先立つ写実絵画にも興味があった。
当時のデンマーク絵画には風景画が少なかったからである。


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クールベ 「フランシュ・コンテでの鹿狩り」 1866年
クールベはフランシュ・コンテ地方のオルナンで生まれた。
雪の中の鹿の絵をいくつも書いている。これは雌が雄を追い越す瞬間。

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4、人物画
印象派の人物画
ベルト・モリゾ 「扇を持つマダム・マリー・ユバール」1874年

マネのオランピアの着衣版のようなポーズ。

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ルノワール「草むらの中の女性」1868年


ドガ「髪をとかす女性」1894年
入浴、化粧など日常生活の中のさりげない動きを表現するのが得意だったドガ。
この女性も誰かに見られているという意識はなく、半ば目を閉じて髪をとくことに
夢中になっている。この時期、ドガはパステル画を主にしていたので油彩画は珍しい。
(同じ主題のパステル画もある)緑色の背景が顔の白、腕の白を際立たせている。

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セザンヌ 「水浴する人たち」1895年

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ゴーギャン 「若い女性(ジャンヌ・ゴウピル)の肖像」1896年

ポスターや図録の表紙に使われていたインパクトのある絵。
ゴーギャンがタヒチに行ってからの絵で、タヒチ在の弁護士から、「娘の肖像画を」と頼まれ、
描いた。
遠近感のない日本の版画風で、女の子の服の地味さに対比して、背景の絵柄入りの青
とピンクが目立つ。服は背景と同じ青で縁取られ、能面のような白い顔を赤い唇が引き立たせている。
女の子が手にバッグを持っていることから、誰かを待っているのだろう。静かで謎めいた人物
と同じくらい周囲の装飾的なモチーフが主役になっている新しい手法は、後のマティスに見られる。

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ゴーギャン「小さな夢、習作」1881年

壁紙が夢の内容かしら?「ゴーギャン錬金術師展」で見た「眠っている子供」の絵を
思い出す。手前右、ベッドにかけられた赤い服の人形が色のアクセントになっている。


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展覧会の最後に、「ハンマース・ホイ」の作品の写真があった。
どうして?と思ったら、ハンセン氏は同じデンマーク人のハンマース・ホイの作品を
たくさん持っていて、オードロップゴー美術館のデンマーク人画家の展示棟で見れる
そうだ。


この展覧会は、ジャックマール・アンドレ美術館で開催されていた。
以前、記事にしたが、、ジャックマール・アンドレ美術館は邸宅美術館で、外が見える
レストランのテラス席がおすすめ。ロブスターがたくさん入ったパクチーのせビーフン、
美味しかったです。
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ピカソ1932年展 [Paris  展覧会]

1932年  (2017年 10月 10日 ~ 2018年 2月 11日 ピカソ美術館にて開催)

ピカソは1932年に、なんと300点以上の作品を創作し、傑作が多く生まれた。
このうち100点あまりが展示されている展覧会。愛人マリー・テレーズを描いた有名な作品「The Dream(夢)」や「Girl Before a Mirror(鏡の前の少女)」も公開されている。


ピカソの1932年という一年間の作品や出来事を時系列で並べた珍しい作品展。
ピカソが、生前に「作品は日記のようなものである」と語った言葉を受け、この展覧会は
見る人に
「作品は日記のように鑑賞できるのか?」という問いを投げかけている。
従って、ほぼ日付順に展示されている。


1月の作品 左:代表作「夢」個人蔵 1月24日
目を閉じてほほ笑むマリ-・テレーズ
右は「休息」1月 「夢」の数日前に描かれた。
背景と、ソファー、色あいが似てるような。。

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「この年、パリやチューリッヒでピカソの初の大回顧展が開かれることとなり、名声を確実にするためにも、
彼は作品を精力的に手がけたのです。1932年は、創意あふれる作品がたくさん生まれた、ピカソを語る
うえで重要な年です」との学芸員の説明が出てた。

 
2月の作品 「赤いひじ掛け椅子の女」
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1932年、ピカソは、ノルマンディーの別宅ボワジュルー城で過ごすことが多かった。
「雨の下のボワジュール城と虹」

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毎日描いた絵を展示してあるので、ボワジュール城の絵は何枚もあった。
風景画は珍しいと思って見たが、ピカソはここに住んでいたと後からわかった。

1932年の絵のモデルは、当時22歳のマリー・テレーズ。妻オルガはパリにいることが
多かったので、ピカソは、マリー・テレーズをモデルに、ボワジュール城で制作に励んだ。
ピカソがマリーテレーズに出会ったのは、5年前。まだ17歳だった。会った瞬間、ギリシア
彫刻の美を彼女に感じたそうだ。1932年、ピカソはマリーテレーズに夢中だった。
「葉っぱのある静物画」
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代表作のひとつ「鏡の前の少女」は、割合、大きな絵。丁寧に描かれている。
(NY近代美術館蔵)
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「眠る女性」(個人蔵) 透き通るような色使いがきれい。
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 「ペルシア風の服を着て椅子にすわる若い女性」

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「読書」
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 Picasso 1932のサブタイトルは、Année érotique エロティックな年代。
「ピカソの表現方法は1年間で変化していて、年の初めの絵はマリーテレーズに対する攻撃的な欲望
が表れているが、年の終りの12月にはソフトなエロティシズムに変わる。大きなヌードの絵(注)は、
まるで画家が女性の体の中に抱かれているかのような印象」との説明がついていた。
(注)
「まどろむ女性」(ポンピドーセンター) 

 ピカソは、油絵13,500点、版画100,000点、挿絵34,000点、彫刻・陶器300点を制作し、
最も多作なアーティストとして「ギネスブック」に登録されている。エロティックな画家
として転機を迎えたのが、この1932年であった。

これは企画展なので1932年にこだわっているが、別部屋で他の年代の作品を見れる。
そこには妻オルガの肖像や、マリーテレーズの後の恋人=ドラマールの肖像をはじめ、
各年代の作品が展示されている。  <参照> 前記事 ピカソ美術館


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ゴーギャン錬金術師展(Gauguin l'alchimiste) [Paris  展覧会]

パリのグランパレでの展覧会は、質が高くすばらしいので、今回、パリに行くと決めた時、
まず、「グランパレでは何を?」と調べた。ゴーギャン展!いつもグランパレの展覧会は
かなり並ぶので、日時指定のチケットをネットで購入しておいた。


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今回のゴーギャン展は、錬金術師というサブタイトルがついているように、絵画だけでなく、彫刻、陶器、
グラフィック、装飾芸術など多方面に渡るゴーギャンの作品が展示されていた。
制作技法や使用素材も説明され、ゴーギャンの創作活動の変遷がわかるようテーマ別になっていた。


第1室、ゴーギャンの年代記
1848年、パリに生まれる。父は国民派のジャーナリストで母方の祖母は有名な社会主義者であった。
      
母方の先祖がペルー人だったので、一家はペルーへ移住しようとするが、航海の途中で

            父が亡くなった。
1854年、母は子供たちを連れて、フランスに戻り、父の実家のオルレアンに住む。
1865年、商船の乗組員となる。
1872年、母の知り合いの紹介で、パリの証券取引所に勤める。メッテと知り合い、翌年結婚
1874年、長男エミール誕生。1883年までに4人子供が誕生。
1876年、作品がサロンに入選。

1879年、第4回印象派展に出品。その後も出品したが、不評であった。
1884年、妻メットの国、デンマークに一家で移住するが、翌年、息子6歳を連れてパリに戻った。
            生活は困窮を極めた。
1886年、エルネスト・シャプレの工房で陶芸を始める。
      7月、ブルターニュ地方のポン=タヴァンで数日過ごし、エミール・ベルナールに出会う。
1887年、フランス領マルティニック島へ行くが、そこでひどい病気になる。パリへ戻る。
      ゴッホの弟の画商テオが作品を買い、客を紹介してくれる。テオの兄フィンセントに会う。
1888年、アルルで数か月間、フィンセント・ゴッホと共同生活をする。
1891年、理想の楽園を求めてフランス領のタヒチ島に渡る。タヒチの女性テハーマナと暮らす。
1893年、パリに戻るが、家族に受け入れられず、タヒチで描いた絵と彫刻も売れなかった。
           展覧会では、44点中11点が売れただけだったが、そのうち2点はドガが購入。
1894年、再びタヒチへ。タヒチの女性パウラと結婚、子供も生まれるが死去。
1896年、脚の痛みと鬱病で入院。前妻との長女死去の知らせを受け、失意のどん底へ。
1903年、死去


第2室 初期の作品

日曜画家としてスタートしたゴーギャンは、独学で学んでいた。
 「ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)」 1881年 オスロ国立美術館
中央に置かれた花が主役のように見えるが、後ろ姿の男はゴーギャン、オルガンを弾いているのが妻。
妻の後ろの棚の上にある陶器の置物はゴーギャンの作品だろう。

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「眠っている子供」1884年 個人蔵
色の美しさが目をひく。印象派の時代。大きな木製のジョッキは、ゴーギャンの制作。

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「あら、ここにもドガのバレリーナがあるわよ。どうしてかしら?」と友達が言うので、
ふり返ってみると、ドガの「舞台上のバレエのリハーサル」だった。
絵の傍に、ドガの踊り子に刺激を受けて、ゴーギャンが制作した木彫の箱(扇入れ)があった。

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木彫で制作した2人の自分の子供の横顔を装飾として貼りつけたキャビネット(家具)もあった。
初期の頃の木彫作品で、「パリジェンヌ」という優美なシルエットのものがあり、後のタヒチの
女性の木彫とは大いに異なっていた。


独学のゴーギャンだったが、後半、ピサロに教えを受けた。お互いに描いたデッサン。
左がピサロが描いたゴーギャン、右はゴーギャンが描いたピサロ。
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第3室 ポン=タヴァン 色彩の時代

ゴーギャンは陶器も制作していたので、自作の壺を眺める友人シャルル・ラヴェルを描いた絵
「ラヴェルの横顔と静物」1886年 インディアナポリス美術館


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ゴーギャンは、エルネスト・シャプレの工房で陶芸を始めた。
陶芸家ブラックマンがシャプレを紹介してくれたのだった。
当時、ブラックマンとシャプレは、日本風の陶器に模様を彫り、エナメルで仕上げ、金で輪郭をとる
技法に凝っていた。ゴーギャンは鳥、羊飼いなどブルターニュの自然を取り入れたモチーフを使った。
「鳥(がん)とブドウ、葡萄の葉付きの枝で飾られた花瓶」1887年 サンタモニカ・ケルトン財団
シャプレとの合作。

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エミール・ベルナールと一緒に、マルティニック島からブルターニュに帰った時に制作。
装飾はブルターニュとマルティニックを折衷。
「地上の楽園」 1888年 戸棚101×120×60.5cm  シカゴ美術館

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1886年から度々訪れているブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァンでの生活は、
キャンプのようだったが、ゴーギャンにとっては自然があふfれた憩いの場だった。
当時のブルターニュの人々は、白い頭巾、白い襟の民族衣装を日常着にしていた。

「ブルターニュの3人の少女の輪舞」1886年 ワシントン・ナショナルギャラリー
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そして少年たちは、裸で水浴をしていた。
「ブルターニュの水を浴びる少年」 1888年 ハンブルグ美術館

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この絵には惹きつけられた。大胆な色づかいと構図。水の色と波の様子に日本画を感じた。
「浪間にて」1889年 クリーブランド美術館

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同じモチーフでの木彫に多色塗り、部分部分はクレヨンの塗り
「ミステリアスであれ」 1890年 オルセー美術館

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ゴッホに招かれ、アルルにも出かけた。
「アルルの洗濯女たち」1888年 ビルバオ(スペイン) 美術館
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2016年に東京都美術館で開催された「ゴッホとゴーギャン展」に来ていた
「アルル、葡萄の収穫(人間の悲劇)」1888年も展示されていたが、ブルターニュの衣装の
女性がアルルにいるとの解説だけだった。
ゴッホの耳切り事件のことは、一切書いてなかったので、ゴーギャンの創作活動全般に影響を
及ぼすものでなかったのだろう。


[晴れ][牡羊座]

第4室 「タヒチでの生活」
タヒチでゴーギャンは、14才のタヒチ女性テハーマナと暮らし、彼女をモデルに絵を描いた。
旧約聖書「創世記」、アダムとイブのエデンの園追放の話に興味を持っていたゴーギャンは、
パリで「異国風のイヴ(1890年)」という絵を描いていたが、タヒチに来てから、テハーマナを
モデルに描いた。エヴァはたくましく、色彩は強い。赤い羽根のあるトカゲが蛇の代わり。
リンゴの代りが白い綿毛のような花びらの花。
えーっと、この絵、どこで見たんだったけ?と思ったら、日本でした!
「かぐわしき大地」(テ・ナーヴェ・ナーヴェ・フェヌア) 1892年 倉敷 大原美術館
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1898年に、これを少し変えて、「イヴ」という木版画(和紙を使用)にしたものも展示されていた。


第5室 「タヒチの神話からの作品」

タヒチで長年、口述で受け継がれてきた儀礼の伝統をゴーギャンは絵に表現した。
タヒチの女性たちにつきまとう不気味な死者の霊、左端に死者の霊が見える。

ベットにうつぶせに横たわっているのは現地妻のテハーマナ。
「死霊が見ている(マナオ・トゥババウ)」1892年 バッファロー市・オルブライト=ノックス美術

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「テハーマナの祖先たち(メラヒ・メトゥア・ノ・テハーマナ)」 1893年 シカゴ美術館
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ゴーギャンは、「ノア・ノア」(かぐわしい香り)というタイトルの本を執筆した。
1891年から93年までのタヒチでの日常生活を挿し絵を入れながら記録した本である。
今回、本「ノア・ノア」の実物が展示されていた。

絵を売るためにパリに戻ったゴーギャンだが、絵はあまり売れず、再びタヒチに戻った。
文明社会に侵されていない色彩豊かなタヒチは、ゴーギャンにとって地上の楽園だった。

ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)1894年 エルミタージュ美術館
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この絵は、原始そのものでなく、形が単純化されていて色彩が明るく美しい。
装飾的になってきたのだろう。

陶製のタヒチの女神「オヴィリ」 1894年 オルセー美術館
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ゴーギャンの墓の横には彼の遺志に従い、「オヴィリ」のブロンズ像が置かれている。

 第6室 「自分の装飾で」
1901年、タヒチを去り、マルティニック諸島のヒヴァ・オア島に「快楽の家 (La Maison du Jouir)」
を建てた。
原始的な題材を追い求めたゴーギャンの集大成の家で、玄関口はゴーギャンの木彫で飾られている。
会場に再現したものが作られていた。


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装飾的な手法を追い求めた晩年。豊かな自然をとりいれた大きな絵が最後に展示されていた。
「ルペ・ルペ(果物取り)」 1899年 プーシキン美術館
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世界中の美術館から集めた全部で200点以上の展示は、見応えがあった。
ひとつのモチーフをいろいろに変化させる、木彫にしたり、陶器にしたり、版画にしたり、
という反復のようすが、よくわかる展覧会だった。
この記事を書きながら、ゴーギャンのパワフルな制作意欲に改めて感心した。


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メディチ家の肖像画展 [Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、ジャックマール・アンドレ美術館で、「メディチ家の肖像画展」
を見た。

16世紀、幾多の戦いを経て、フィレンツェは黄金時代を迎えた。
1569年、メディチ家のコジモ1世が初代トスカーナ大公となった頃は、肖像画が、
広告の役割も兼ねてたくさん描かれた。

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①コジモ1世の妃、エレオノーラ・ディ・トレド(ブロンズィーノ画)
ナポリの副王の娘で、気位が高かった。肖像画からもそれが伝わってくる。
美しいので、この展覧会のチラシ関係は全部これ。
彼女は9人子供を産み、孫がマリー・ド・メディシスである。

①エレオノーラの夫、コジモ1世、40才の時である。(ブロンズィーノ画)
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*写真の真ん中に線が入ってるのは、買った解説冊子を私が2つ折りにしたからです。

② フランチェスコ1世(1541~87)
コジモ1世の長男。妃はハプスブルグ家出身で、2人の間の娘がフランスに嫁ぎ、
ルイ13世の母となったマリー・メディシスである。

少年時代のフランチェスコ(ブロンズィーノとその弟子達画)
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フランチェスコ1世とその妃は宴の後、急死した。死因はマラリアであった。

③フランチェスコ1世の弟のフェルディナンドが次の王となった。
フェルディナンドは政治的に手腕ある王様で、スペインのトスカーナ支配を断ち切り、
フランスと積極的に外交的をし、マリー・メディシスをフランスに嫁がせた。産業振興
にも勤め、対外貿易を活発化させ、善政を行ったので、市民に人気があった。
芸術にも理解が深く、ローマの「ヴィラ・メディチ」はフランチェスコ1世が造らせた。

フェルディナンドの息子 在位期間が短かった。
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マリー・ド・メディシス(1575~1642) (サンティ・ディ・ティト画)
この展覧会で、一番豪華な絵。等身大よりもっと大きい絵。
(全身、足元まである絵だけど、大きすぎてスキャンできなかったのです)

1600年、フランス王アンリ4世との結婚の時。
テーブルの上に置いてある王冠は百合の紋章なので、フランス王家のもの。
衣装の生地には、百合の花に加えて、結婚を祝すカーネーション、多産を意味
するザクロが織り込まれている。金のブレードが華やか。
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この時代に活躍した肖像画家は、ブロンズィーノ、サンティ・ディ・ティトの他に、
ポントルモ、リドルフォ・デル・ギルランダイオ、アンドレア・デル・サルトがいた。

左:アレッサンドロ・アローリ「ディアノラ・ディ・トレド」1565年
一番上の絵、エレオノーラのいとこ。小さな絵だが、着けている様々な宝石を
ラピスラズリも使って描いている豪華な肖像画。
右:リドルフォ・デル・ギルランダイオ「ベールを被った女性」1510年頃
ラファエッロ、ダ・ヴィンチの型の絵。窓の外の景色はフィレンツェ。

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貴族の女性だけでなく、宮廷に仕えている人たちの肖像画も描かれた。
この場合は、手に何かを持っていた。
左:ポントルモ「リュートを弾く人」1529年
右:アンドレア・デル・サルト「本を持つ若い女」1528年

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リュートを弾く人の絵は他にもあったし、犬と一緒だったり、鳥と一緒だったり
の絵もあった。メディチ家は宮廷画家をこれだけたくさん抱えていたのだから、
財力が半端なかった。



コジモ1世より前の時代、
16世紀、偉大なるロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)と呼ばれたロレンツォ・メディチ支配下
のフィレンツェは、美しい町で、芸術と建築が素晴らしく、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ
といった天才を輩出し、世界の中心だった。
↓ ヴェッキオ宮は、1540年にコジモ1世がエレオノーラ妃のために隣にピッティ宮を造るまで、
メディチ家の住居で、フィレンツェのシンボルだった。

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ロレンツォ(1449~92)は宮廷に、ボッティチェリ、リッピ、ミケランジェロらを住まわせた。

ロレンツォ亡き後、跡を継いだ長男ピエロは、政治能力がなく、フランス軍に攻め入られ
フィレンツェを追放になってしまう。
フィレンツェは共和制に戻り、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフランスの後盾を得て
実権を握った。清貧を説くサヴォナローラの執政は初めは歓迎されたが、過度になって
きたため、フィレンツェ市民に愛想をつかされ、ついには火刑となった。

ロレンツォ・イル・マニフィコの夢は、メディチ家から教皇を出すことであった。
マニフィコの次男、ジョヴァンニがレオ10世(1475~1521)となり、バチカン宮廷に
ラファエッロやミケランジェロが集った。
再びフィレンツェは、メディチ家が支配するようになった。
ピエロの息子ウルビーノ公ロレンツォ(1492~1519)は、マキャヴェリに法務官を命じた。
マキャヴェリは、強力な君主によるイタリア統一をロレンツォに提案したが、聞き入れ
られなかった。
マキャベリ (サンティ・ディ・ティト画)

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ウルビーノ公ロレンツォの娘が、フランスのアンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスである。

教皇レオ10世の次の次の教皇、クレメンス7世もメディチ家出身であった。
クレメンス7世は、庶子アレッサンドロ・ディ・メディチ(1510~1537)をフィレンツェ
の統治者として送り込んだ。アレッサンドロの母はメディチ家の黒人奴隷だったため、
彼は色が黒く、イル・モーロ(ムーア人)と呼ばれた。

「フィレンツェの町を眺めるアレッサンドロ」 (ヴァザーリ画) 1534年
絵の中の小さな白い四角は、その部分の説明が参考についていたから。椅子の脚には
フィレンツェのシンボルのライオンが彫られている、というように。

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ヴァザーリは多才で、絵を描くだけでなく、評論も書き、建築に明るかったので、
ピッティ宮の改装も行った。

アレッサンドロは、かなり評判の悪い男だった。そして同じメディチ家のロレンザッチョ
によって暗殺された。(この暗殺事件は芝居になり、ロレンザッチョは、サラ・ベルナール
の当たり役となった。ポスターをミュシャが描き評判になった)

アレッサンドロ暗殺事件は、後に、絵にもなった。
いとこのロレンザッチオに暗殺されたアレッサンドロ・ド・メディチ
Gabriele Castagnola 1865年  230×344cmの大きな絵
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アレッサンドロの暗殺で後継者がいなくなったため、親戚筋のコジモが大公となった。
そして、スペインの大貴族の娘エレオノーラ(一番上の絵)と結婚したのである。

[黒ハート]メディチ家のことは、漫画「チェーザレ」で馴染みがあったので、この展覧会にも
親しみが持てた。
フランスに嫁いだマリー・ド・メディシスがフランスに上陸する時を描いた大きな絵
は、ルーヴル美術館にいつも展示されている。
さらに、カトリーヌ・ド・メディシスの館は、ボージュ広場に今でもあり、浅田次郎が
「王妃の館」という本を書いている。(歴史小説でなく王妃の館を舞台にしただけの
フィクション)


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エリザベート・ヴィジェ=ルブラン展 [Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、グランパレでやっている評判の展覧会が、
「エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン展」だった。

ヴィジェ=ルブランは、18世紀に最も有名だった女流画家で、マリー・アントワネットに
気に入られ、何枚もの肖像画を残した。アントワネットが断頭台に消えた後は、
イタリー、ウィーン、ロシアと貴族たちの肖像画を描きながら移り住み、晩年、ようやく
フランスに帰国した。

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展覧会は、回顧展として、年代ごとの展示であった。

1、若い頃
アーティストの家系に生まれ、画家の父から絵の手ほどきを受け、父の友人の画家
たちからもアドヴァイスを受け、ラファエロ、ティツィアーノ、ファンダイクの絵を好んだ。
●19歳の時の絵「詩の寓話」。Allégorie de la Poésie
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上の絵の制作と同じ年、19歳の時、画家仲間の母を描いた肖像画は、
ヴィジェ=ルブランの特長であるエレガントさが既に表れていた。
21歳の時、画家で画商のルブラン氏と結婚した。

2、王妃の肖像画
貴族の肖像画を描き、評判を得たヴィジェ=ルブランは、マリー・アントワネットの
肖像画を描くために、ヴェルサイユに呼ばれた。
アントワネットとヴィジェ=ルブランは同じ年であったため、親しくなった。

●「マリー・アントワネット正装にて宮廷で」1778年

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●「軽い服装のマリー・アントワネット」 1783年

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●「マリー・アントワネットと子供たち」 1787年

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3、画家であり母であり
ヴィジェ=ルブランにも娘がいた。娘をモデルに母と子の絵を描いている。
●「鏡の中の自分を見るルイーズ=ルブラン」1787年 ルイーズちゃん、目がくりっ。
●「画家とその娘」1786年 ルネッサンスの画風。
本人の自画像、2もあるが、とっても美人。
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 4、輝いていた時代
著名人からヴィジェ=ルブランに肖像画の注文がたくさん来た。

●ポリニャック公爵夫人 1782年
一番上、この展覧会のポスターや図録の表紙に使われている絵。
ポリニャック夫人は、マリー・アントワネットの取り巻き、親友。
美しいだけでなく、人を引き付けるエスプリを持っていた。
軽い生地のガリア服を着て、花飾りのついた帽子をかぶり、寛いだ雰囲気。

●「デュバリー夫人」1871年
この展覧会のチケットはデュバリー夫人の肖像画だった。
デュバリー夫人は、ルイ15世の公妾。ポンパドゥール夫人亡き後の公妾。
従って、ルイ16世の妻マリー・アントワネットとは確執があった。

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●廃墟を描いて有名な画家ユベール・ロベール 1788年
ユベール・ロベールは当時55才。王立美術館のルイ16世絵画コレクションの責任者
も任され、活躍していた。(2012年、国立西洋美術館でユベール・ロべール展があった)
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5、イタリー
1789年、フランス革命を察したヴィジェ=ルブランは、宮廷に革命派(ジャコバン党)
が押し入る一日前に、荷物をまとめてパリを去り、イタリアに行った。
ローマでは、ギャラリーでコレッジョ、ラファエロの作品を見、オペラを観たりした。

次、ナポリに行った。ナポリには、マリー・アントワネットの妹が嫁いでいたからである。
「庭のバラの花を摘むマリア・クリスティーナ・テレジア・ブルボン」1791年。
マリアはアントワネットの姪で、後に、ナポリ、シチリア両王国の王妃となった。

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「バッカスの巫女に扮したエマ・ハミルトン」1792年
エマは英国の肖像画家ジョージ・ロムニーのモデルだったが、世紀の美女だったので、
在ナポリ英国大使ハミルトン氏と結婚した。しかし、ネルソン提督とのダブル不倫が
世間を騒がせ、その話が映画「美女ありき」になった。
「古代ギリシアの巫女に扮するエマ・ハミルトン」という絵もあった。
(エマ・ハミルトンを知らなかったので、誰?と思って調べた。)

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6、ウィーン
ウィーンの滞在は2年ほどだった。
大使館主催のパーティで、ヴィジェ=ルブランはロシアの貴族たちと知り合い、
ロシアに行くことにした。

7、ロシア
ヴィジェ=ルブランの名声をエカテリーナ2世は知っていたので、宮廷画家として
迎えられ、皇族を多く描いた。

「エリザヴェータ・アレクセーエヴナ」1795年
エカテリーナ2世が孫のアレクサンドルの嫁にと、ドイツから連れて来た16才の
皇女。ロシアらしい服。手前に白テンの毛皮つきの赤いマントが見える。ピンクの
バラがアクセントになっている。

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「アレキサンドラ・ゴリシャーナ姫と息子の肖像」1794年
ラファエロの「小椅子の聖母」と似た構図で、赤と青が服に使われている点も
似ている。
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1802年、革命政府が転覆したので、47歳のヴィジェ=ルブランは、フランスに
戻った。13年に及ぶ国外での生活だった。

それぞれの国で、女性の顔つき、服装が異なるのが、見ていて興味深かった。
フランスでは面長の宮廷の人が多かったのに、イタリアでは、どんぐり眼で濃い顔
になった。ウィーンの服装は地味めで、ロシアでは、赤が多く使われ独特の服だった。

フランス人だったら、当然知っているポリニャック公爵夫人、デュバリー夫人
だが、私には、宝塚の「マリー・アントワネット」に出て来たかな?くらいの認識
だった。親友E子の絵に関心がないフランス人の御主人でも、「グランパレで、
女性のほら、何て言ったっけ、マリーアントワネットの肖像画描いた人の展覧会
やってるよ」と教えてくれるほど、ヴィジェ=ルブランは、フランス人には馴染みの
画家なのだとわかった。
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展覧会場入り口。VIGEE LE BRUN と銅版に打ち出した看板が左右についている。
パリの12月は朝10時でもまだほの暗さが残っていた。


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ヴィラ・フローラ(VILLA FLORA)展 [Paris  展覧会]

マルモッタン・モネ美術館で、ベルト・モリゾ部屋から出ると、次の部屋は、
Arthur & Hedy Hahanloser Collection で、私が好きなナビ派や
ヴァロットンの絵がずらり。すごい!と思ったら、これは2月7日までの企画展
「ヴィラ・フローラ展」だった。

「ヴィラ・フローラ」は、スイスのチューリッヒに近い町、ヴィンタトゥールにある
邸宅美術館で、Arthur & Hedy Hahanloser(アーサーとヘディ・ハーンローザ―)
のコレクションである。ヘディは父から相続した地に、ウィーン分離派風の幾何学的
な建物を作り、将来は美術館にと意図したが、後にベランダ付きのネオ・クラシック
様式を付け足し、画家のアトリエの雰囲気を出した。
ヘディは絵を描くのが趣味だったので、ヘディの描いた絵も展示されていた。

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庭に置かれている彫刻は、マイヨールの「夏」
アンリ・マンギャンもここを訪れ、「ヴィンタトゥールのヴィラ・フローラでのお茶」
を描いた。(1912年)

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夫妻のコレクションは20世紀の画家たち、ボナール、ルドン、マンギャン、ヴュイヤール、
ヴァロットンにスイスの画家のジョバンニ・ジャコメッティとホドラー。さらにマネ、ゴッホ、
セザンヌも加え充実している。コレクションの特徴は、夫妻が画家たちと親しく交流しながら
作品を入手したことである。

ヘディは、ヴァロットンの絵が好みだったので、肖像画を依頼した。
左)アーサー・ハーンローザー博士(眼科医)1909年  右)ヘディ・ハーンローザー(1908年)

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ヴァロットンの仲介でハーンローザー夫妻は、ボナールに会い、絵を購入した。
さらに夫妻が南仏カンヌに別荘を購入すると、3年後に、近くのル・カネに
ボナールが住み始め、アトリエに夫妻が来るのをいつも歓迎、親しくつきあった。

1、ボナール
*カンヌの船着き場(1928~34年)
南仏の太陽は、ボナールの作品に光と色の輝きを吹き込んだ。
地中海の海の濃い青色が船着き場の柵の白さで強調されている。
ぽちゃん、ぽちゃんと音を立てる荒い波の動きは、船着き場にじっと
佇む人々と呼応している。波の表現はもはや印象派ではない。

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*お茶(1917年)
午後の光を浴びた部屋での親しい人とのお茶の時間。
緑色の服を着て青い帽子をかぶった夫人は、室内の様子と窓の外の景色を
見ているかのようであり、庭の木々の葉の形や花瓶の花の形も重要な構成
要素になっている。

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*鏡の効果あるいは浴盤(1909年)
ボナールは、浴室での女性(妻マルト)を描いた作品が多い。
これもマルトが体を洗おうとしてるところか、身体を拭こうとしてるところである。
「写真のような効果を狙った」とボナールが言うように、画面いっぱいに浴室の
ガラス戸を配置し、ある距離を置いて見ているかのような視点である。

BonardMirroir.jpg

2、ヴュイヤール
ハーンローザ―夫妻は、ヴァロットンを通じてヴュイヤールの絵を知った。
ヘディはヴュイヤールに肖像画を描いてほしかったのだが、ヴュイヤールが
ヴィラ・フローラに来てくれなかったので、夫妻はパリのヴュイヤールの
アトリエを訪ねた。

*アンフレヴィル(Amfreville)でのゲームの勝負と夫人たち(1906年)
ハーンローザ―夫妻のコレクションには、親しい人たちが集っている場面の絵が多い。
ヴュイヤールが当時借りていた家の窓から見下ろした写真のような構図の絵。
家主は画商で、画商の妹が一番手前に描かれている。

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*青い花瓶(1932年)

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3、ヴァロットン
*すみれ色の帽子(1907年)
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4、ルドン
*赤い船(1910年)
空と海の間に漂う幽霊船、船は血のように赤く、青い帆は風に導かれる。
水平線は、青、緑、黄土色の統合。雲と波は同じ要素でしかない。
ルドンは命題「見えるものの論理を見えないもののために奉仕させる」
(見えるものだけにとらわれず、見えないものにも光をあてよ)をこの絵
でも示している。

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5、マルケ
*ルアーヴルの祝祭日(1906~1913)

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6、ジョヴァンニ・ジャコメッティ
ジョヴァンニ・ジャコメッティは、2人の息子=彫刻家のアルベルトとディエゴほど
有名でないが、スイスの国民的画家。スイス国民どうしということで、
ハーンローザ―夫妻のコレクションに加わった。

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7、ホドラー
ホドラーもスイス人。ハーンローザ―夫妻はジュネーヴのホドラーのアトリエで
彼に会った。ヘディは、「あなたの作品に惹きつけられています」とホドラーに
手紙を送った。

*サヴォイ側のアルプスとレマン湖(1905年)

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*イタリア女性Giulia Leonardi の肖像(1910年)
Giulia Leonardi は、歌手でギタリスト、ジュネーヴでカフェをやっていた。
ホドラーはそこの常連で、彼女をラファエロ風に神話のゴルゴン(醜い女)
として描いた。

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ハーンローザー夫妻は、コレクションの充実のために、ゴッホ、セザンヌ、マネ
の絵を購入し、ヴィラ・フローラの壁に飾った。

8、ゴッホ
*種をまく人(1888年)
ミレーの「種をまく人」(1850年)にヒントを得て描いた作品。

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9.マネ
*アマゾネ(1883年)
黒い服にシルクハットの女性、Henriette Chabot
都会のエレガンス。

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10、セザンヌ
自画像(1877年)は写真なし

どれも見応えのある絵ばかりだった。あまり絵に興味がない同行の友達も
かなり、じっと眺めていた。


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