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ゴーギャン錬金術師展(Gauguin l'alchimiste) [Paris  展覧会]

パリのグランパレでの展覧会は、質が高くすばらしいので、今回、パリに行くと決めた時、
まず、「グランパレでは何を?」と調べた。ゴーギャン展!いつもグランパレの展覧会は
かなり並ぶので、日時指定のチケットをネットで購入しておいた。


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今回のゴーギャン展は、錬金術師というサブタイトルがついているように、絵画だけでなく、彫刻、陶器、
グラフィック、装飾芸術など多方面に渡るゴーギャンの作品が展示されていた。
制作技法や使用素材も説明され、ゴーギャンの創作活動の変遷がわかるようテーマ別になっていた。


第1室、ゴーギャンの年代記
1848年、パリに生まれる。父は国民派のジャーナリストで母方の祖母は有名な社会主義者であった。
      
母方の先祖がペルー人だったので、一家はペルーへ移住しようとするが、航海の途中で

            父が亡くなった。
1854年、母は子供たちを連れて、フランスに戻り、父の実家のオルレアンに住む。
1865年、商船の乗組員となる。
1872年、母の知り合いの紹介で、パリの証券取引所に勤める。メッテと知り合い、翌年結婚
1874年、長男エミール誕生。1883年までに4人子供が誕生。
1876年、作品がサロンに入選。

1879年、第4回印象派展に出品。その後も出品したが、不評であった。
1884年、妻メットの国、デンマークに一家で移住するが、翌年、息子6歳を連れてパリに戻った。
            生活は困窮を極めた。
1886年、エルネスト・シャプレの工房で陶芸を始める。
      7月、ブルターニュ地方のポン=タヴァンで数日過ごし、エミール・ベルナールに出会う。
1887年、フランス領マルティニック島へ行くが、そこでひどい病気になる。パリへ戻る。
      ゴッホの弟の画商テオが作品を買い、客を紹介してくれる。テオの兄フィンセントに会う。
1888年、アルルで数か月間、フィンセント・ゴッホと共同生活をする。
1891年、理想の楽園を求めてフランス領のタヒチ島に渡る。タヒチの女性テハーマナと暮らす。
1893年、パリに戻るが、家族に受け入れられず、タヒチで描いた絵と彫刻も売れなかった。
           展覧会では、44点中11点が売れただけだったが、そのうち2点はドガが購入。
1894年、再びタヒチへ。タヒチの女性パウラと結婚、子供も生まれるが死去。
1896年、脚の痛みと鬱病で入院。前妻との長女死去の知らせを受け、失意のどん底へ。
1903年、死去


第2室 初期の作品

日曜画家としてスタートしたゴーギャンは、独学で学んでいた。
 「ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)」 1881年 オスロ国立美術館
中央に置かれた花が主役のように見えるが、後ろ姿の男はゴーギャン、オルガンを弾いているのが妻。
妻の後ろの棚の上にある陶器の置物はゴーギャンの作品だろう。

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「眠っている子供」1884年 個人蔵
色の美しさが目をひく。印象派の時代。大きな木製のジョッキは、ゴーギャンの制作。

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「あら、ここにもドガのバレリーナがあるわよ。どうしてかしら?」と友達が言うので、
ふり返ってみると、ドガの「舞台上のバレエのリハーサル」だった。
絵の傍に、ドガの踊り子に刺激を受けて、ゴーギャンが制作した木彫の箱(扇入れ)があった。

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木彫で制作した2人の自分の子供の横顔を装飾として貼りつけたキャビネット(家具)もあった。
初期の頃の木彫作品で、「パリジェンヌ」という優美なシルエットのものがあり、後のタヒチの
女性の木彫とは大いに異なっていた。


独学のゴーギャンだったが、後半、ピサロに教えを受けた。お互いに描いたデッサン。
左がピサロが描いたゴーギャン、右はゴーギャンが描いたピサロ。
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第3室 ポン=タヴァン 色彩の時代

ゴーギャンは陶器も制作していたので、自作の壺を眺める友人シャルル・ラヴェルを描いた絵
「ラヴェルの横顔と静物」1886年 インディアナポリス美術館


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ゴーギャンは、エルネスト・シャプレの工房で陶芸を始めた。
陶芸家ブラックマンがシャプレを紹介してくれたのだった。
当時、ブラックマンとシャプレは、日本風の陶器に模様を彫り、エナメルで仕上げ、金で輪郭をとる
技法に凝っていた。ゴーギャンは鳥、羊飼いなどブルターニュの自然を取り入れたモチーフを使った。
「鳥(がん)とブドウ、葡萄の葉付きの枝で飾られた花瓶」1887年 サンタモニカ・ケルトン財団
シャプレとの合作。

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エミール・ベルナールと一緒に、マルティニック島からブルターニュに帰った時に制作。
装飾はブルターニュとマルティニックを折衷。
「地上の楽園」 1888年 戸棚101×120×60.5cm  シカゴ美術館

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1886年から度々訪れているブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァンでの生活は、
キャンプのようだったが、ゴーギャンにとっては自然があふfれた憩いの場だった。
当時のブルターニュの人々は、白い頭巾、白い襟の民族衣装を日常着にしていた。

「ブルターニュの3人の少女の輪舞」1886年 ワシントン・ナショナルギャラリー
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そして少年たちは、裸で水浴をしていた。
「ブルターニュの水を浴びる少年」 1888年 ハンブルグ美術館

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この絵には惹きつけられた。大胆な色づかいと構図。水の色と波の様子に日本画を感じた。
「浪間にて」1889年 クリーブランド美術館

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同じモチーフでの木彫に多色塗り、部分部分はクレヨンの塗り
「ミステリアスであれ」 1890年 オルセー美術館

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ゴッホに招かれ、アルルにも出かけた。
「アルルの洗濯女たち」1888年 ビルバオ(スペイン) 美術館
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2016年に東京都美術館で開催された「ゴッホとゴーギャン展」に来ていた
「アルル、葡萄の収穫(人間の悲劇)」1888年も展示されていたが、ブルターニュの衣装の
女性がアルルにいるとの解説だけだった。
ゴッホの耳切り事件のことは、一切書いてなかったので、ゴーギャンの創作活動全般に影響を
及ぼすものでなかったのだろう。


[晴れ][牡羊座]

第4室 「タヒチでの生活」
タヒチでゴーギャンは、14才のタヒチ女性テハーマナと暮らし、彼女をモデルに絵を描いた。
旧約聖書「創世記」、アダムとイブのエデンの園追放の話に興味を持っていたゴーギャンは、
パリで「異国風のイヴ(1890年)」という絵を描いていたが、タヒチに来てから、テハーマナを
モデルに描いた。エヴァはたくましく、色彩は強い。赤い羽根のあるトカゲが蛇の代わり。
リンゴの代りが白い綿毛のような花びらの花。
えーっと、この絵、どこで見たんだったけ?と思ったら、日本でした!
「かぐわしき大地」(テ・ナーヴェ・ナーヴェ・フェヌア) 1892年 倉敷 大原美術館
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1898年に、これを少し変えて、「イヴ」という木版画(和紙を使用)にしたものも展示されていた。


第5室 「タヒチの神話からの作品」

タヒチで長年、口述で受け継がれてきた儀礼の伝統をゴーギャンは絵に表現した。
タヒチの女性たちにつきまとう不気味な死者の霊、左端に死者の霊が見える。

ベットにうつぶせに横たわっているのは現地妻のテハーマナ。
「死霊が見ている(マナオ・トゥババウ)」1892年 バッファロー市・オルブライト=ノックス美術

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「テハーマナの祖先たち(メラヒ・メトゥア・ノ・テハーマナ)」 1893年 シカゴ美術館
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ゴーギャンは、「ノア・ノア」(かぐわしい香り)というタイトルの本を執筆した。
1891年から93年までのタヒチでの日常生活を挿し絵を入れながら記録した本である。
今回、本「ノア・ノア」の実物が展示されていた。

絵を売るためにパリに戻ったゴーギャンだが、絵はあまり売れず、再びタヒチに戻った。
文明社会に侵されていない色彩豊かなタヒチは、ゴーギャンにとって地上の楽園だった。

ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)1894年 エルミタージュ美術館
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この絵は、原始そのものでなく、形が単純化されていて色彩が明るく美しい。
装飾的になってきたのだろう。

陶製のタヒチの女神「オヴィリ」 1894年 オルセー美術館
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ゴーギャンの墓の横には彼の遺志に従い、「オヴィリ」のブロンズ像が置かれている。

 第6室 「自分の装飾で」
1901年、タヒチを去り、マルティニック諸島のヒヴァ・オア島に「快楽の家 (La Maison du Jouir)」
を建てた。
原始的な題材を追い求めたゴーギャンの集大成の家で、玄関口はゴーギャンの木彫で飾られている。
会場に再現したものが作られていた。


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装飾的な手法を追い求めた晩年。豊かな自然をとりいれた大きな絵が最後に展示されていた。
「ルペ・ルペ(果物取り)」 1899年 プーシキン美術館
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世界中の美術館から集めた全部で200点以上の展示は、見応えがあった。
ひとつのモチーフをいろいろに変化させる、木彫にしたり、陶器にしたり、版画にしたり、
という反復のようすが、よくわかる展覧会だった。
この記事を書きながら、ゴーギャンのパワフルな制作意欲に改めて感心した。


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メディチ家の肖像画展 [Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、ジャックマール・アンドレ美術館で、「メディチ家の肖像画展」
を見た。

16世紀、幾多の戦いを経て、フィレンツェは黄金時代を迎えた。
1569年、メディチ家のコジモ1世が初代トスカーナ大公となった頃は、肖像画が、
広告の役割も兼ねてたくさん描かれた。

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①コジモ1世の妃、エレオノーラ・ディ・トレド(ブロンズィーノ画)
ナポリの副王の娘で、気位が高かった。肖像画からもそれが伝わってくる。
美しいので、この展覧会のチラシ関係は全部これ。
彼女は9人子供を産み、孫がマリー・ド・メディシスである。

①エレオノーラの夫、コジモ1世、40才の時である。(ブロンズィーノ画)
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*写真の真ん中に線が入ってるのは、買った解説冊子を私が2つ折りにしたからです。

② フランチェスコ1世(1541~87)
コジモ1世の長男。妃はハプスブルグ家出身で、2人の間の娘がフランスに嫁ぎ、
ルイ13世の母となったマリー・メディシスである。

少年時代のフランチェスコ(ブロンズィーノとその弟子達画)
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フランチェスコ1世とその妃は宴の後、急死した。死因はマラリアであった。

③フランチェスコ1世の弟のフェルディナンドが次の王となった。
フェルディナンドは政治的に手腕ある王様で、スペインのトスカーナ支配を断ち切り、
フランスと積極的に外交的をし、マリー・メディシスをフランスに嫁がせた。産業振興
にも勤め、対外貿易を活発化させ、善政を行ったので、市民に人気があった。
芸術にも理解が深く、ローマの「ヴィラ・メディチ」はフランチェスコ1世が造らせた。

フェルディナンドの息子 在位期間が短かった。
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マリー・ド・メディシス(1575~1642) (サンティ・ディ・ティト画)
この展覧会で、一番豪華な絵。等身大よりもっと大きい絵。
(全身、足元まである絵だけど、大きすぎてスキャンできなかったのです)

1600年、フランス王アンリ4世との結婚の時。
テーブルの上に置いてある王冠は百合の紋章なので、フランス王家のもの。
衣装の生地には、百合の花に加えて、結婚を祝すカーネーション、多産を意味
するザクロが織り込まれている。金のブレードが華やか。
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この時代に活躍した肖像画家は、ブロンズィーノ、サンティ・ディ・ティトの他に、
ポントルモ、リドルフォ・デル・ギルランダイオ、アンドレア・デル・サルトがいた。

左:アレッサンドロ・アローリ「ディアノラ・ディ・トレド」1565年
一番上の絵、エレオノーラのいとこ。小さな絵だが、着けている様々な宝石を
ラピスラズリも使って描いている豪華な肖像画。
右:リドルフォ・デル・ギルランダイオ「ベールを被った女性」1510年頃
ラファエッロ、ダ・ヴィンチの型の絵。窓の外の景色はフィレンツェ。

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貴族の女性だけでなく、宮廷に仕えている人たちの肖像画も描かれた。
この場合は、手に何かを持っていた。
左:ポントルモ「リュートを弾く人」1529年
右:アンドレア・デル・サルト「本を持つ若い女」1528年

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リュートを弾く人の絵は他にもあったし、犬と一緒だったり、鳥と一緒だったり
の絵もあった。メディチ家は宮廷画家をこれだけたくさん抱えていたのだから、
財力が半端なかった。



コジモ1世より前の時代、
16世紀、偉大なるロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)と呼ばれたロレンツォ・メディチ支配下
のフィレンツェは、美しい町で、芸術と建築が素晴らしく、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ
といった天才を輩出し、世界の中心だった。
↓ ヴェッキオ宮は、1540年にコジモ1世がエレオノーラ妃のために隣にピッティ宮を造るまで、
メディチ家の住居で、フィレンツェのシンボルだった。

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ロレンツォ(1449~92)は宮廷に、ボッティチェリ、リッピ、ミケランジェロらを住まわせた。

ロレンツォ亡き後、跡を継いだ長男ピエロは、政治能力がなく、フランス軍に攻め入られ
フィレンツェを追放になってしまう。
フィレンツェは共和制に戻り、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフランスの後盾を得て
実権を握った。清貧を説くサヴォナローラの執政は初めは歓迎されたが、過度になって
きたため、フィレンツェ市民に愛想をつかされ、ついには火刑となった。

ロレンツォ・イル・マニフィコの夢は、メディチ家から教皇を出すことであった。
マニフィコの次男、ジョヴァンニがレオ10世(1475~1521)となり、バチカン宮廷に
ラファエッロやミケランジェロが集った。
再びフィレンツェは、メディチ家が支配するようになった。
ピエロの息子ウルビーノ公ロレンツォ(1492~1519)は、マキャヴェリに法務官を命じた。
マキャヴェリは、強力な君主によるイタリア統一をロレンツォに提案したが、聞き入れ
られなかった。
マキャベリ (サンティ・ディ・ティト画)

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ウルビーノ公ロレンツォの娘が、フランスのアンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスである。

教皇レオ10世の次の次の教皇、クレメンス7世もメディチ家出身であった。
クレメンス7世は、庶子アレッサンドロ・ディ・メディチ(1510~1537)をフィレンツェ
の統治者として送り込んだ。アレッサンドロの母はメディチ家の黒人奴隷だったため、
彼は色が黒く、イル・モーロ(ムーア人)と呼ばれた。

「フィレンツェの町を眺めるアレッサンドロ」 (ヴァザーリ画) 1534年
絵の中の小さな白い四角は、その部分の説明が参考についていたから。椅子の脚には
フィレンツェのシンボルのライオンが彫られている、というように。

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ヴァザーリは多才で、絵を描くだけでなく、評論も書き、建築に明るかったので、
ピッティ宮の改装も行った。

アレッサンドロは、かなり評判の悪い男だった。そして同じメディチ家のロレンザッチョ
によって暗殺された。(この暗殺事件は芝居になり、ロレンザッチョは、サラ・ベルナール
の当たり役となった。ポスターをミュシャが描き評判になった)

アレッサンドロ暗殺事件は、後に、絵にもなった。
いとこのロレンザッチオに暗殺されたアレッサンドロ・ド・メディチ
Gabriele Castagnola 1865年  230×344cmの大きな絵
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アレッサンドロの暗殺で後継者がいなくなったため、親戚筋のコジモが大公となった。
そして、スペインの大貴族の娘エレオノーラ(一番上の絵)と結婚したのである。

[黒ハート]メディチ家のことは、漫画「チェーザレ」で馴染みがあったので、この展覧会にも
親しみが持てた。
フランスに嫁いだマリー・ド・メディシスがフランスに上陸する時を描いた大きな絵
は、ルーヴル美術館にいつも展示されている。
さらに、カトリーヌ・ド・メディシスの館は、ボージュ広場に今でもあり、浅田次郎が
「王妃の館」という本を書いている。(歴史小説でなく王妃の館を舞台にしただけの
フィクション)


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エリザベート・ヴィジェ=ルブラン展 [Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、グランパレでやっている評判の展覧会が、
「エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン展」だった。

ヴィジェ=ルブランは、18世紀に最も有名だった女流画家で、マリー・アントワネットに
気に入られ、何枚もの肖像画を残した。アントワネットが断頭台に消えた後は、
イタリー、ウィーン、ロシアと貴族たちの肖像画を描きながら移り住み、晩年、ようやく
フランスに帰国した。

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展覧会は、回顧展として、年代ごとの展示であった。

1、若い頃
アーティストの家系に生まれ、画家の父から絵の手ほどきを受け、父の友人の画家
たちからもアドヴァイスを受け、ラファエロ、ティツィアーノ、ファンダイクの絵を好んだ。
●19歳の時の絵「詩の寓話」。Allégorie de la Poésie
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上の絵の制作と同じ年、19歳の時、画家仲間の母を描いた肖像画は、
ヴィジェ=ルブランの特長であるエレガントさが既に表れていた。
21歳の時、画家で画商のルブラン氏と結婚した。

2、王妃の肖像画
貴族の肖像画を描き、評判を得たヴィジェ=ルブランは、マリー・アントワネットの
肖像画を描くために、ヴェルサイユに呼ばれた。
アントワネットとヴィジェ=ルブランは同じ年であったため、親しくなった。

●「マリー・アントワネット正装にて宮廷で」1778年

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●「軽い服装のマリー・アントワネット」 1783年

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●「マリー・アントワネットと子供たち」 1787年

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3、画家であり母であり
ヴィジェ=ルブランにも娘がいた。娘をモデルに母と子の絵を描いている。
●「鏡の中の自分を見るルイーズ=ルブラン」1787年 ルイーズちゃん、目がくりっ。
●「画家とその娘」1786年 ルネッサンスの画風。
本人の自画像、2もあるが、とっても美人。
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 4、輝いていた時代
著名人からヴィジェ=ルブランに肖像画の注文がたくさん来た。

●ポリニャック公爵夫人 1782年
一番上、この展覧会のポスターや図録の表紙に使われている絵。
ポリニャック夫人は、マリー・アントワネットの取り巻き、親友。
美しいだけでなく、人を引き付けるエスプリを持っていた。
軽い生地のガリア服を着て、花飾りのついた帽子をかぶり、寛いだ雰囲気。

●「デュバリー夫人」1871年
この展覧会のチケットはデュバリー夫人の肖像画だった。
デュバリー夫人は、ルイ15世の公妾。ポンパドゥール夫人亡き後の公妾。
従って、ルイ16世の妻マリー・アントワネットとは確執があった。

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●廃墟を描いて有名な画家ユベール・ロベール 1788年
ユベール・ロベールは当時55才。王立美術館のルイ16世絵画コレクションの責任者
も任され、活躍していた。(2012年、国立西洋美術館でユベール・ロべール展があった)
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5、イタリー
1789年、フランス革命を察したヴィジェ=ルブランは、宮廷に革命派(ジャコバン党)
が押し入る一日前に、荷物をまとめてパリを去り、イタリアに行った。
ローマでは、ギャラリーでコレッジョ、ラファエロの作品を見、オペラを観たりした。

次、ナポリに行った。ナポリには、マリー・アントワネットの妹が嫁いでいたからである。
「庭のバラの花を摘むマリア・クリスティーナ・テレジア・ブルボン」1791年。
マリアはアントワネットの姪で、後に、ナポリ、シチリア両王国の王妃となった。

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「バッカスの巫女に扮したエマ・ハミルトン」1792年
エマは英国の肖像画家ジョージ・ロムニーのモデルだったが、世紀の美女だったので、
在ナポリ英国大使ハミルトン氏と結婚した。しかし、ネルソン提督とのダブル不倫が
世間を騒がせ、その話が映画「美女ありき」になった。
「古代ギリシアの巫女に扮するエマ・ハミルトン」という絵もあった。
(エマ・ハミルトンを知らなかったので、誰?と思って調べた。)

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6、ウィーン
ウィーンの滞在は2年ほどだった。
大使館主催のパーティで、ヴィジェ=ルブランはロシアの貴族たちと知り合い、
ロシアに行くことにした。

7、ロシア
ヴィジェ=ルブランの名声をエカテリーナ2世は知っていたので、宮廷画家として
迎えられ、皇族を多く描いた。

「エリザヴェータ・アレクセーエヴナ」1795年
エカテリーナ2世が孫のアレクサンドルの嫁にと、ドイツから連れて来た16才の
皇女。ロシアらしい服。手前に白テンの毛皮つきの赤いマントが見える。ピンクの
バラがアクセントになっている。

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「アレキサンドラ・ゴリシャーナ姫と息子の肖像」1794年
ラファエロの「小椅子の聖母」と似た構図で、赤と青が服に使われている点も
似ている。
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1802年、革命政府が転覆したので、47歳のヴィジェ=ルブランは、フランスに
戻った。13年に及ぶ国外での生活だった。

それぞれの国で、女性の顔つき、服装が異なるのが、見ていて興味深かった。
フランスでは面長の宮廷の人が多かったのに、イタリアでは、どんぐり眼で濃い顔
になった。ウィーンの服装は地味めで、ロシアでは、赤が多く使われ独特の服だった。

フランス人だったら、当然知っているポリニャック公爵夫人、デュバリー夫人
だが、私には、宝塚の「マリー・アントワネット」に出て来たかな?くらいの認識
だった。親友E子の絵に関心がないフランス人の御主人でも、「グランパレで、
女性のほら、何て言ったっけ、マリーアントワネットの肖像画描いた人の展覧会
やってるよ」と教えてくれるほど、ヴィジェ=ルブランは、フランス人には馴染みの
画家なのだとわかった。
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展覧会場入り口。VIGEE LE BRUN と銅版に打ち出した看板が左右についている。
パリの12月は朝10時でもまだほの暗さが残っていた。


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ヴィラ・フローラ(VILLA FLORA)展 [Paris  展覧会]

マルモッタン・モネ美術館で、ベルト・モリゾ部屋から出ると、次の部屋は、
Arthur & Hedy Hahanloser Collection で、私が好きなナビ派や
ヴァロットンの絵がずらり。すごい!と思ったら、これは2月7日までの企画展
「ヴィラ・フローラ展」だった。

「ヴィラ・フローラ」は、スイスのチューリッヒに近い町、ヴィンタトゥールにある
邸宅美術館で、Arthur & Hedy Hahanloser(アーサーとヘディ・ハーンローザ―)
のコレクションである。ヘディは父から相続した地に、ウィーン分離派風の幾何学的
な建物を作り、将来は美術館にと意図したが、後にベランダ付きのネオ・クラシック
様式を付け足し、画家のアトリエの雰囲気を出した。
ヘディは絵を描くのが趣味だったので、ヘディの描いた絵も展示されていた。

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庭に置かれている彫刻は、マイヨールの「夏」
アンリ・マンギャンもここを訪れ、「ヴィンタトゥールのヴィラ・フローラでのお茶」
を描いた。(1912年)

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夫妻のコレクションは20世紀の画家たち、ボナール、ルドン、マンギャン、ヴュイヤール、
ヴァロットンにスイスの画家のジョバンニ・ジャコメッティとホドラー。さらにマネ、ゴッホ、
セザンヌも加え充実している。コレクションの特徴は、夫妻が画家たちと親しく交流しながら
作品を入手したことである。

ヘディは、ヴァロットンの絵が好みだったので、肖像画を依頼した。
左)アーサー・ハーンローザー博士(眼科医)1909年  右)ヘディ・ハーンローザー(1908年)

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ヴァロットンの仲介でハーンローザー夫妻は、ボナールに会い、絵を購入した。
さらに夫妻が南仏カンヌに別荘を購入すると、3年後に、近くのル・カネに
ボナールが住み始め、アトリエに夫妻が来るのをいつも歓迎、親しくつきあった。

1、ボナール
*カンヌの船着き場(1928~34年)
南仏の太陽は、ボナールの作品に光と色の輝きを吹き込んだ。
地中海の海の濃い青色が船着き場の柵の白さで強調されている。
ぽちゃん、ぽちゃんと音を立てる荒い波の動きは、船着き場にじっと
佇む人々と呼応している。波の表現はもはや印象派ではない。

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*お茶(1917年)
午後の光を浴びた部屋での親しい人とのお茶の時間。
緑色の服を着て青い帽子をかぶった夫人は、室内の様子と窓の外の景色を
見ているかのようであり、庭の木々の葉の形や花瓶の花の形も重要な構成
要素になっている。

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*鏡の効果あるいは浴盤(1909年)
ボナールは、浴室での女性(妻マルト)を描いた作品が多い。
これもマルトが体を洗おうとしてるところか、身体を拭こうとしてるところである。
「写真のような効果を狙った」とボナールが言うように、画面いっぱいに浴室の
ガラス戸を配置し、ある距離を置いて見ているかのような視点である。

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2、ヴュイヤール
ハーンローザ―夫妻は、ヴァロットンを通じてヴュイヤールの絵を知った。
ヘディはヴュイヤールに肖像画を描いてほしかったのだが、ヴュイヤールが
ヴィラ・フローラに来てくれなかったので、夫妻はパリのヴュイヤールの
アトリエを訪ねた。

*アンフレヴィル(Amfreville)でのゲームの勝負と夫人たち(1906年)
ハーンローザ―夫妻のコレクションには、親しい人たちが集っている場面の絵が多い。
ヴュイヤールが当時借りていた家の窓から見下ろした写真のような構図の絵。
家主は画商で、画商の妹が一番手前に描かれている。

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*青い花瓶(1932年)

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3、ヴァロットン
*すみれ色の帽子(1907年)
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4、ルドン
*赤い船(1910年)
空と海の間に漂う幽霊船、船は血のように赤く、青い帆は風に導かれる。
水平線は、青、緑、黄土色の統合。雲と波は同じ要素でしかない。
ルドンは命題「見えるものの論理を見えないもののために奉仕させる」
(見えるものだけにとらわれず、見えないものにも光をあてよ)をこの絵
でも示している。

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5、マルケ
*ルアーヴルの祝祭日(1906~1913)

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6、ジョヴァンニ・ジャコメッティ
ジョヴァンニ・ジャコメッティは、2人の息子=彫刻家のアルベルトとディエゴほど
有名でないが、スイスの国民的画家。スイス国民どうしということで、
ハーンローザ―夫妻のコレクションに加わった。

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7、ホドラー
ホドラーもスイス人。ハーンローザ―夫妻はジュネーヴのホドラーのアトリエで
彼に会った。ヘディは、「あなたの作品に惹きつけられています」とホドラーに
手紙を送った。

*サヴォイ側のアルプスとレマン湖(1905年)

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*イタリア女性Giulia Leonardi の肖像(1910年)
Giulia Leonardi は、歌手でギタリスト、ジュネーヴでカフェをやっていた。
ホドラーはそこの常連で、彼女をラファエロ風に神話のゴルゴン(醜い女)
として描いた。

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ハーンローザー夫妻は、コレクションの充実のために、ゴッホ、セザンヌ、マネ
の絵を購入し、ヴィラ・フローラの壁に飾った。

8、ゴッホ
*種をまく人(1888年)
ミレーの「種をまく人」(1850年)にヒントを得て描いた作品。

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9.マネ
*アマゾネ(1883年)
黒い服にシルクハットの女性、Henriette Chabot
都会のエレガンス。

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10、セザンヌ
自画像(1877年)は写真なし

どれも見応えのある絵ばかりだった。あまり絵に興味がない同行の友達も
かなり、じっと眺めていた。


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「パリ1900年」展 [Paris  展覧会]

 「プティパレで、『パリ1900年』っていう展覧会が始まったって、新聞に出てるわ。
面白そうよ。1900年のパリ万博の時のようすを見せるんですって」と、Eが一面
特集になっている記事を見せてくれた。さっそく出かけた。

プティパレは、グランパレと共に、1900年の万博用に建てられた。
ご覧のように宮殿ふうの荘厳で豪華な造り。

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paris1900-2.jpg 上の写真の垂れ幕部分を拡大

チケットを買って中へはいると、会場への入口は、こんなふう。
ドーム型の天井はとても高く、天井の絵も美しい。

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ここから先は、撮影禁止なので、新聞記事にそって説明すると、
「パリ1900年:豪遊」
ベルエポック時代のパリ、万博が開かれ、この時代はパリの全盛期だった。
 は、ロートレック作「『シルペルク』でボレロを踊るマルセル・ランデール」
ランデール嬢の速い動きが伝わってくる。シルペルクは、劇場の名前。この公演は
大評判で、ロートレックはこの公演を20回以上見たそうだ。

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ロートレックの絵にあるように、この時代、人々はお洒落をしてレストランや劇場に
出かけたりした。 「三日月に黒猫」は、アドルフ・ヴィレットのイラストで、当時、
有名だった文学キャバレー「シャノワール」(黒猫)の看板。シャノワールには、若き
ドビュッシーら音楽家たちも集った。
2 夜のお出かけ用のケープ。これは実際に伯爵夫人が着ていた豪華なもの。 

工芸品、家具、宝飾品にも斬新な素晴らしいものが造られた。
4 エミール・ガレの花をモチーフにしたアール・ヌーヴォーの花瓶(右下)は、
当時の人気女優サラ・ベルナールからも絶賛された。

1900年のパリは、産業革命が浸透し、万博のために地下鉄が開通した。
地下鉄の入口は、ギマールによるアールヌーヴォーのデザインで、今でも
使われている。
ロシアからは、万博を記念して、欄干が金色に輝くアレクサンドル3世橋が
寄贈された。世界初のデパートも出来、人々の生活は大きく変わった。

パビリオンには、自動車、世界初のエスカレーター、メリエスの映画、電気に
よる照明など新しい製品が展示され、人々を驚かせた。

カミーユ・ピトンが描いた「アレクサンドル3世橋からアンバリッド前の広場を望む」
1900年頃

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Henri Gervexが描いた「プレカトランでの晩さん会」 1909年
盛装した人たちがエレガントで華やか。ブーローニュの森のレストラン「プレカトラン」
は、こんな昔からあるのね。親友Eが、「一番パリらしいレストラン」と連れて行って
くれたのは、ここだった。

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当時、人気があった絵。ジャン・ベローの「パリジェンヌ、コンコルド広場にて」
この時から、パリジェンヌという言葉が定着し、パリジェンヌがおしゃれの代名詞の
ようになった。
右は、スタンランが描いた「シャノアール」のポスター。Rodolphe Salus(経営者の名前)

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演劇も大いに流行った。ミュシャの描いた女優サラ・ベルナールの芝居のポスターは
どれも大人気だった。「LORENZACCIO」は、サラが男役に挑み話題になった芝居。
ミュシャ作の「La Nature」銀と金のブロンズ像は、きらきら輝き、存在感があった。
写真なので、銀の部分がゴツゴツして見えるけど、実物は、なめらかで美しい。

 lorenzaccio_mucha.jpg muha.jpg

当時、絵画の世界は、伝統的なアカデミズムと印象派(象徴派)が対立していた。
下左)アカデミズムを代表するジェロームの「水浴する女」は、モダンへの挑戦と言われた。
下右)マイヨールの「地中海、コートダジュール」は、マイヨールが彫刻をする前、画家
だった頃の作品。シャヴァンヌ、ヴュイヤール、ボナール、ドニに影響を受けていたが、
ゴーギャン芸術に啓示を受けた。

paris1900-Gerome.jpg paris1900-Maillot.jpg

40才過ぎてマイヨールは彫刻家に転身した。絵と同様に彫刻においても、モデルを
単純化し、ボリュームと輪郭は正確にするという総合的、抽象的な見方を示した。
マイヨールは、当時の有名な画商ヴォラールのすすめで、彫刻の個展を開き、
ロダンに絶賛された。数年後、サロンに「地中海」(この絵と同じタイトル)が入選し、
才能が開花した。マイヨールのなめらかな肌合いの作風は、ロダンが支配的地位
(1900年万博でもロダンは個人のパビリオンを持つほどだった)の彫刻界への
挑戦であった。

セザンヌが描いた「画商ヴォラール」    ロダンの「アムールとプシケ」

paris1900-cezanne.jpg  paris1900-Rodin.jpg  

会場を出た所には、ブルーの照明で当時のようすが映されていた。

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見応えのある良い展覧会だった。8月17日まで開催中。


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カール・ラーション展 [Paris  展覧会]

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CarlLarsson.jpg

プチ・パレに「パリ1900年」展を見に行った時、隣の会場でやっていたのが、
Carl Larsson(カール・ラーション)展。スウェーデンのイメージ(想像の世界)
というサブタイトル。
この編み込みセーターは、まさにスウェーデンのイメージ!同行のN嬢に、「昔、
こういうスキーセーター着てたでしょ」「そう、よく覚えてるわね。この坊やのほっぺが
赤くて、金髪。まさに北欧の子供だわ」
私たちは知らない画家だったけど、こんなかわいい絵なら、と見ることにした。

カール・ラーション(1853~1919)は、スウェーデンの画家。
初め、印象派の影響を受けた油絵を描いていたので、それらの絵が第1室に展示
されていた。光を意識した絵は、わかりやすく、ドラマティック。描かれた風景、
いろいろな画家からの影響にも興味をひかれた。
だが、彼の本領は、これではなく、第2室の水彩画、子供や家族の絵である。

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CarlLason花の窓.jpg

スウェーデンらしい冬の白一色の屋外での絵もあったが、絵の大半は、家の中。
彼は7人子供がいて、妻の実家の田舎の家で暮らしていた。家のインテリアは、
子供が快適なように彼がなおし、明るい色を基調としたかわいいものである。
絵の主役は家族だが、壁紙、椅子、家具、台所など、背景に描かれている室内
にほのぼのとした温かみがあり、見入ってしまう。
上の絵にも机の上に編みかけの毛糸があるが、手芸が有名なスウェーデン
の100年前の日常生活なので、編物をしている絵もあった。

ラーションのほのぼのとした世界から、外に出てみると、お向かいのグランパレの前
に何やらひとだかり。グランパレで展覧会はないはずなのに、、と訝しく思って見ると、
明日4月7日、一日だけクラシックカー展示があると、垂れ幕が下がっていた。
展示車を搬入してるところだった。キャリアカーで運んで来るのね。GrandPalaes.jpg

ClassicCar1.jpg

[右斜め上]下された白い車はベンツ。
[右斜め下]搬入が終わり、数台並んだところ。さきほどのベンツが一番前、次はBMW?
自転車の後ろは赤と白のFIAT、ブルーは白いチェッカーフラッグ模様だからラリー
に出た車。明日、見に来たいけど、今日はもう夜の便で日本に帰る日。ザンネン

ClassicCar3.jpg


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