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フェルナン・クノップフ展~(謎めいた絵の巨匠) [Paris  展覧会]

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昨年12月にパリのプティ・パレ美術館で見た展覧会。
クノップフは、ベルギー幻想美術の範疇の人で、このブログでもベルギー幻想美術展
ベルギー王立美術館展、で取り上げているが、知名度は低い。

回顧展だったので、まとまって150点と、絵だけでなく彫刻や写真も見れた。

最初の展示は、クノップフのアトリエ兼自宅の紙で出来た模型。
この展覧会は彼の家の中にいるように、間仕切りや窓を作り、彼が気に入っていた
青色の部屋を再現と、工夫がなされていた。


初期の作品から
「フォセにて ある夕方」 1886年
モデルは妹マルグリット。若い頃に住んでいたフォッセ村。ポンと人を置いた
ように不思議で静かな絵。

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「バラと日本の扇」1888年
当時、流行のジャポニズムの影響で掛け軸ふうの縦長の作品。扇は団扇(うちわ)。

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「マルグリット・クノップフの肖像画」1887年
マルグリットは妹。クノップフのほとんどすべての作品のモデルを務めた。

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展覧会の入り口にあった細長い大きな絵の拡大写真もマルグリットがモデル。
実物は、クノップフの自宅に飾られていた。
写真の下の方をカットしたもの。
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7人の女性たちと見えるが、よく見ると、モデルはすべてマルグリット。
マルグリットに異なるテニスウェアを着せて写真を撮り、それをもとに描いたもの。
描くプロセスも展示されていた。絵のタイトルは「記憶」1889年
写実性と非現実的な雰囲気が入り混じっている。

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フェルナン・クノップフ(1858~1921)は、
裕福な家の出身。裁判所判事であった父親の転勤で、8歳までブルージュに住む。
18歳で大学の法学部に通うが、退学し、画家を志し、王立芸術アカデミーに通い、
数回パリに滞在。ドラクロワやアングルに感銘を受け、ギュスターブ・モローとも
知り合う。
1883年にアンソールたちと「二十人会」を結成。その時の出品作品は、母が
モデルの「シューマンを聞きながら」である。

1889年、イギリスの「ラファエル前派」のウィリアム・ハント、
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、エドワード・バーンジョーンズらと親交を持つ。

1891年「I lock the door upon muyself」
ガブリエル・ロセッティの妹のクリスティーナ・ロセッティの同名の詩にインスパイア

された絵。当時、クノップフはHypnos(ギリシア神話の眠りの神)、、人の死はHypnosが与える最後の眠り
に関心を持っていた。女性の右上にブルーの布を右耳につけたHypnosの像と一輪の芥子の花。芥子は
死の象徴で、手前にあるオレンジ色のユリは萎れている。

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1898年、「ウィーン分離派展」へ「愛撫」を出品し、クリムトの作品形成にも
影響を与えた。横長の絵。

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オイディプスとスフィンクスの出会いを描いた絵。
チーターの身体と女性の顔を持つスフィンクスが若者に顔を摺り寄せる。
スフィンクスは通りかかる者に謎を出し解けないと食い殺すというギリシア神話
がもとになっている。

スフィンクスのうっとり表情が見てとれる顔の部分を表紙にした展覧会の案内本。
やはり、これがクノップフの代表作なのだろう。

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神話の世界に惹かれたクノップフは、ブロンズ彫刻で、メドゥーサも作った。
メドゥーサなので、髪の毛はたくさんの蛇から成り、叫び、威嚇をしている。

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「眠れるメドゥーサ」1896年。身体がふくろうのメドゥーサ。不気味で恐ろしい。
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クノップフは神話の世界に惹かれる一方で、子供の頃、住んだブルージュの景色を描き、
傑作と評判になった。
「忘れられた村」Une ville abndonnee 1904年

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ブルージュの聖ヨハネ施療院(*参照)を描いた絵の写真と
マルグリットをモデルに「ヘルメスとプシュケ」を描いた絵を一つの額に
入れた作品。「Secret-Reflet」
1902年

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マルグリットをモデルにした上の絵の制作過程の写真も展示されていた。
こんなふうに衣装を着せ、ポーズをとらせるのね、と思った。


神話の世界だけでなく、日常生活の一コマも描いた。「アジサイ」1894年

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「Neve氏の子供たちの肖像」1893年

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ベルギー王立美術館展で見た黒い毛皮の襟がついた白い服の
かわいい少女の絵もあった。、

象徴的で考えさせられる絵と、和む愛らしい子供や家族の絵、神話からのイメージ絵と
多岐にわたる絵。個人蔵をたくさん集めて来ての回顧展ならでは、だった。




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個人コレクション傑作展・印象派からフォーヴへ(パリ・マルモッタン美術館にて) [Paris  展覧会]

マルモッタン・モネ美術館の説明は、以前の記事でしているので省略する。
マルモッタン・モネ美術館は、所蔵品が印象派中心なので、2014年に
開館80年記念として個人コレクションの印象派主要作品100」展を
開催したところ、来場者が28万人もあった。

今回は傑作といわれる作品を30人の個人コレクターから借りて
「印象派からフォーヴへ」と歴史的流れを追う展覧会である。
企画をしたのは、この美術館のキューレーター、クレール・デュラン=リュエル・スノレールさんで、
近代画商ポール・デュラン=リュエルの子孫である。

「印象派からフォーヴへの旅」というサブタイトルなので、順を追っての紹介。


1、印象派
図録の表紙は、カイユボットの「ヨーロッパ橋」1876年。
大きな絵で、2013年ブリヂストン美術館での「カイユボット展」の時に見
た。
ジュネーブのAssociation des amis de Petit Palaisの所蔵品。これは絵の一部分。

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モネは5枚あったが、秀逸はこれ「赤い菊」1880年
絵ハガキになって売っていた。
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ルノワール「Madame Josse Bernheim Dauberrileの肖像」1901年
当時一番の画商Bernheim氏の依頼で、彼の家の
嫁を描いた。
すぐそばに、これより小さいサイズで「バラ色のイボンヌ」1899年があった。
「ピアノを弾く少女」のモデルのイボンヌ・ㇽロール(妹の方)の7年後、
大人になった姿だった。


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ドガ「入浴後の朝食」1883年 パステル画
裸ですぐ横に浴槽がある。それなのに、コーヒーのカップを持って、、
日本人の私からしたら、服着る方が先でしょ、と思ってしまうが。。
デッサンの上手なドガならでは、の家での一瞬をとらえた絵。

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2、新印象派
スーラ「Courberoieの風景」1885年 81×65センチと大きくはないが、
存在感のある絵だった。美しい。
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ゴッホもあったが、1点だけ、サンレミの療養所で描いたバラの絵だった。
日本で、ほどの人気はない。

シニャック「カステラーヌ」1902年 Castellaneはプロヴァンスにある。
高い山が村を見下ろす地域。
光あふれるプロヴァンスという様子。
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3、総合主義 Synthetisme

ゴーギャン「『希望』への静物画」1901年
『希望』とは、絵の中で、左上の壁にかかっているシャヴァンヌの「希望」という絵の
ことである。ゴーギャンはシャヴァンヌの色彩と構図を称賛していた。
これは亡くなる2年前の作品。タヒチで貧乏生活をしていたゴギャンの収入源はパリで

絵を売ってくれる画商アン・ブロワーズ頼みだった。果物や花の静物画を描くようにと
いうアン・ブロワーズからの指示で描いた絵。ひまわりは太陽のシンボルでゴッホへの
オマージュ。半円形の花瓶にはタヒチのシンボルとしての赤い人物が彫られている。

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ロートレック 「洗濯女」1887年 パリに出てきてボナのアトリエ、コルモンの
アトリエで学んだが、アカデミックな画風に反抗し、貧しいけれど、生き生きと
暮らす人々の生活を描いた。モデルは、ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンである。
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ベルナール 「Y港の崖」1892年 ベルナールは、最初はコルモンの画塾で学んだ。
後に、ゴーギャンと共に、平坦な色面を太い輪郭線で囲むクロワゾニズムを提唱した。
これは次の時代の抽象画へと続く道だった。

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4、彫刻

カミーユ・クローデル「接吻」 1900?年
カミーユの師、ロダンは、「神曲」のパオロとフランチェスカの悲恋を題材に
「接吻」(大理石)という彫刻を制作し、評判になった。
これは、ブロンズだが音楽的。愛に溶け込んでいく足元、神経が行き届いた
手先、崩れおちる手前の官能と優雅さ。美しい。
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追加分

ロダン「洗礼者ヨハネの頭部」1892年
ロダンはこの3年前、1889年に洗礼者ヨハネの像(上野・西洋美術館にもある)
を制作したが、今回は、頭部だけを取り出し、モダンな雰囲気で制作した。
聖書に基づく「サロメの物語」をもとに、ヨハネの首を皿の上に載せる形にしている。
彫刻なので、見る角度で、違って見えた。

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5、ナビ派
ヴュイヤール「Josse兄弟夫妻と幼いガストン・ベレンハイム アンリマルタン通りの家にて」1905年

ヴュイヤールはゴーギャンの影響を受け、日本美術に興味を持った。
家族など自分の周りの人々を描いた。ナビ派の中でも装飾的な画風に特徴がある。

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ビュイヤール「果物摘み」1899~1900年
風景画の少ないビュイヤールの作品。ボナールの絵?と思った。


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ボナール「立ち姿の裸婦」1905年
ボナールは後に妻になるマルトと出会い、生涯ずっとマルトをモデルに絵を
描いた。これは初期の頃の裸婦なので、強い色が使われ、攻撃的な感じを受ける。
冷たい光に包まれた裸婦は彫刻のようである。
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6、象徴派

ルドン「木の下に立つ人物」1894年
図録の裏表紙に使われていた絵。

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7、色の周りに

マティス「海に向かって開いた窓、エトルタにて」1920~21年
モローの弟子だったマティスだが、1897年、パリでピサロと一緒にカイユボット展を
見に行ったことから画風が変わり、驚くような色遣いをするようになった。
この作品は、それから25年後、嵐のあとのエトルタ、窓を額縁のように
使うのは、パリ時代にもあったが、ここでは、海岸が画面を斜めに切っている。
青と紫の空、近景はオレンジで緑で海岸線は緑。雲がノルマンディの空の特徴だが、
印象派の描いた黒っぽい雲とは異なっている。
この場所がエトルタとわかるのは、左端の変わった形の岩から。
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8、フォーヴィズム

デュフィ「マルティーグ(プロヴァンスの都市)の船」1907年
マティスと知り合い、フォーヴのグループに入る。デュフィはフォーヴィズム作家の中では、
色合いがおとなしい。この絵では船が異なるアングルで描かれているのが面白い。
この翌年、ブラックと制作を始め、フォヴィズムを離れた。

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アンドレ・ドラン 「ヴラマンクの肖像」1905年

黄色の背景、黒のソフト帽、まんまるの2つの眼の下に赤い口髭。髪も赤。
頬は白とバラ色。シンプルな色を使った表現。
アンドレ・ドランはマティスやヴラマンクとともにフォーヴィスムを創設した。
大胆で鮮やかな色彩と構図で描いた。

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ヴラマンク「コンポートのある静物画」1905年
ヴラマンクはゴッホを尊敬していたので、粘っこい塗りはゴッホ流。
黄色の洋梨に青緑の器、花瓶やテーブルの上に横たわるものも青緑系。
テーブルの上のものはみな丸く、テーブルの角は三角形を作っている。

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追加分
ピカソ「スペインのダンサー」1901年 ピカソ20才、バルセロナで暮らしていた時代
の作品。青の時代の前、初期の作品。
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ハンセン氏の秘蔵作品展 (オードロップゴー美術館のコレクションから) [Paris  展覧会]

2017年12月ジャックマール・アンドレ美術館にて)

以前、コペンハーゲンに行った時、行ってみたかったのが、「オードロップゴー美術館」だった。
でも、コペンから10kmという郊外の森にあるので、遠い!と同行の友達に拒否されてしまった。

オードロップゴー美術館は、保険会社で富をなしたハンセン氏が亡き後、美術コレクションがある
邸宅を国に寄贈、美術館となったのである。庭も屋外彫刻があり快適だそう。企画展をするための
新館は、国立競技場のコンペで話題になったイラク出身の女性建築家ザハ・ハディドの設計。
カフェレストランは国立新美術館と同じくPaulが入ってるとのこと。

オードロップゴー美術館のコレクションは、フランス印象派とデンマーク人作品だが、今回、
パリに来たのはフランス印象派。全部で40数点。そのうち14点をご紹介。

1、風景画コローからシスレーまで
端正に描かれた絵。いつものコローとは違う。
「マントの橋」1850~1854
コローがMantesに滞在時の1842年、行政官Robert氏から自邸に飾る
3枚パネルの依頼を受けて描いたうちの一枚。明るい光を浴び、青空の下のマントの橋、水、
木々、左手前の女性の立ち姿が風景画を一段高めている。

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シスレー 「ビランクールでの川舟の荷おろし」1877年

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ピサロ 「エラニーのプラムの木の花」 1894年
足を止めて見つめてしまう。白いプラムの花が美しい。背景のレンガの建物に映える。
他の絵に比べて大きめのサイズだったので、写真も大きくした。

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モネ 「グレーの空のウォータールー橋」 1903年
モネは1900年から1904年の間、42枚のウォータールー橋を描いている。
川に浮かぶ船の交通、工業化がすすむロンドンの煙突の煙などを青、緑、グレー、所々
にピンクの点で表現し、筆のタッチを分割することによって、霧の立ち込めたロンドンの
風景の雰囲気を出している。

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2、静物画 
マネ 「洋梨の入った籠」 1882年
シンプルで、グレーと緑の色のハーモニーが良いと、ハンセン氏は気に入っていた。

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マティス 「花と果物」1909年
フォーブの時代のあと、マティスはダンスシリーズのような装飾的な絵に変わった。
セザンヌ風の果物、花の色と形は不規則で、幾何学的に引かれた背後の線に対抗している。

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3、写実絵画 クールベとバルビゾン派


ドーヴィニー 「穏やかな海、グレーの時間」 1894年
ハンセン氏は印象派に先立つ写実絵画にも興味があった。
当時のデンマーク絵画には風景画が少なかったからである。

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クールベ 「フランシュ・コンテでの鹿狩り」 1866年
クールベはフランシュ・コンテ地方のオルナンで生まれた。
雪の中の鹿の絵をいくつも書いている。これは雌が雄を追い越す瞬間。

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4、人物画
印象派の人物画
ベルト・モリゾ 「扇を持つマダム・マリー・ユバール」1874年

マネのオランピアの着衣版のようなポーズ。

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ルノワール「草むらの中の女性」1868年


ドガ「髪をとかす女性」1894年
入浴、化粧など日常生活の中のさりげない動きを表現するのが得意だったドガ。
この女性も誰かに見られているという意識はなく、半ば目を閉じて髪をとくことに
夢中になっている。この時期、ドガはパステル画を主にしていたので油彩画は珍しい。
(同じ主題のパステル画もある)緑色の背景が顔の白、腕の白を際立たせている。

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セザンヌ 「水浴する人たち」1895年

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ゴーギャン 「若い女性(ジャンヌ・ゴウピル)の肖像」1896年

ポスターや図録の表紙に使われていたインパクトのある絵。
ゴーギャンがタヒチに行ってからの絵で、タヒチ在の弁護士から、「娘の肖像画を」と頼まれ、
描いた。
遠近感のない日本の版画風で、女の子の服の地味さに対比して、背景の絵柄入りの青
とピンクが目立つ。服は背景と同じ青で縁取られ、能面のような白い顔を赤い唇が引き立たせている。
女の子が手にバッグを持っていることから、誰かを待っているのだろう。静かで謎めいた人物
と同じくらい周囲の装飾的なモチーフが主役になっている新しい手法は、後のマティスに見られる。

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ゴーギャン「小さな夢、習作」1881年

壁紙が夢の内容かしら?「ゴーギャン錬金術師展」で見た「眠っている子供」の絵を
思い出す。手前右、ベッドにかけられた赤い服の人形が色のアクセントになっている。

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展覧会の最後に、「ハンマース・ホイ」の作品の写真があった。
どうして?と思ったら、ハンセン氏は同じデンマーク人のハンマース・ホイの作品を
たくさん持っていて、オードロップゴー美術館のデンマーク人画家の展示棟で見れるそうだ。


この展覧会は、ジャックマール・アンドレ美術館で開催されていた。
以前、記事にしたが、、ジャックマール・アンドレ美術館は邸宅美術館で、外が見える
レストランのテラス席がおすすめ。ロブスターがたくさん入ったパクチーのせビーフン、
美味しかったです。
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ピカソ1932年展 [Paris  展覧会]

1932年  (2017年 10月 10日 ~ 2018年 2月 11日 ピカソ美術館にて開催)

ピカソは1932年に、なんと300点以上の作品を創作し、傑作が多く生まれた。
このうち100点あまりが展示されている展覧会。愛人マリー・テレーズを描いた有名な作品「The Dream(夢)」や「Girl Before a Mirror(鏡の前の少女)」も公開されている。


ピカソの1932年という一年間の作品や出来事を時系列で並べた珍しい作品展。
ピカソが、生前に「作品は日記のようなものである」と語った言葉を受け、この展覧会は
見る人に
「作品は日記のように鑑賞できるのか?」という問いを投げかけている。
従って、ほぼ日付順に展示されている。


1月の作品 左:代表作「夢」個人蔵 1月24日
目を閉じてほほ笑むマリ-・テレーズ
右は「休息」1月 「夢」の数日前に描かれた。
背景と、ソファー、色あいが似てるような。。

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「この年、パリやチューリッヒでピカソの初の大回顧展が開かれることとなり、名声を確実にするためにも、
彼は作品を精力的に手がけたのです。1932年は、創意あふれる作品がたくさん生まれた、ピカソを語る
うえで重要な年です」との学芸員の説明が出てた。

 
2月の作品 「赤いひじ掛け椅子の女」
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1932年、ピカソは、ノルマンディーの別宅ボワジュルー城で過ごすことが多かった。
「雨の下のボワジュール城と虹」

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毎日描いた絵を展示してあるので、ボワジュール城の絵は何枚もあった。
風景画は珍しいと思って見たが、ピカソはここに住んでいたと後からわかった。

1932年の絵のモデルは、当時22歳のマリー・テレーズ。妻オルガはパリにいることが
多かったので、ピカソは、マリー・テレーズをモデルに、ボワジュール城で制作に励んだ。
ピカソがマリーテレーズに出会ったのは、5年前。まだ17歳だった。会った瞬間、ギリシア
彫刻の美を彼女に感じたそうだ。1932年、ピカソはマリーテレーズに夢中だった。
「葉っぱのある静物画」
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代表作のひとつ「鏡の前の少女」は、割合、大きな絵。丁寧に描かれている。
(NY近代美術館蔵)
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「眠る女性」(個人蔵) 透き通るような色使いがきれい。
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 「ペルシア風の服を着て椅子にすわる若い女性」

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「読書」
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 Picasso 1932のサブタイトルは、Année érotique エロティックな年代。
「ピカソの表現方法は1年間で変化していて、年の初めの絵はマリーテレーズに対する攻撃的な欲望
が表れているが、年の終りの12月にはソフトなエロティシズムに変わる。大きなヌードの絵(注)は、
まるで画家が女性の体の中に抱かれているかのような印象」との説明がついていた。
(注)
「まどろむ女性」(ポンピドーセンター) 

 ピカソは、油絵13,500点、版画100,000点、挿絵34,000点、彫刻・陶器300点を制作し、
最も多作なアーティストとして「ギネスブック」に登録されている。エロティックな画家
として転機を迎えたのが、この1932年であった。

これは企画展なので1932年にこだわっているが、別部屋で他の年代の作品を見れる。
そこには妻オルガの肖像や、マリーテレーズの後の恋人=ドラマールの肖像をはじめ、
各年代の作品が展示されている。  <参照> 前記事 ピカソ美術館


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ゴーギャン錬金術師展(Gauguin l'alchimiste) [Paris  展覧会]

(2017年9月15日から2018年1月22日まで グランパレにて開催)


パリのグランパレでの展覧会は、質が高くすばらしいので、今回、パリに行くと決めた時、
まず、「グランパレでは何を?」と調べた。ゴーギャン展!いつもグランパレの展覧会は
かなり並ぶので、日時指定のチケットをネットで購入しておいた。


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今回のゴーギャン展は、錬金術師というサブタイトルがついているように、絵画だけでなく、彫刻、陶器、
グラフィック、装飾芸術など多方面に渡るゴーギャンの作品が展示されていた。
制作技法や使用素材も説明され、ゴーギャンの創作活動の変遷がわかるようテーマ別になっていた。


第1室、ゴーギャンの年代記
1848年、パリに生まれる。父は国民派のジャーナリストで母方の祖母は有名な社会主義者であった。
      
母方の先祖がペルー人だったので、一家はペルーへ移住しようとするが、航海の途中で

            父が亡くなった。
1854年、母は子供たちを連れて、フランスに戻り、父の実家のオルレアンに住む。
1865年、商船の乗組員となる。
1872年、母の知り合いの紹介で、パリの証券取引所に勤める。メッテと知り合い、翌年結婚
1874年、長男エミール誕生。1883年までに4人子供が誕生。
1876年、作品がサロンに入選。

1879年、第4回印象派展に出品。その後も出品したが、不評であった。
1884年、妻メットの国、デンマークに一家で移住するが、翌年、息子6歳を連れてパリに戻った。
            生活は困窮を極めた。
1886年、エルネスト・シャプレの工房で陶芸を始める。
      7月、ブルターニュ地方のポン=タヴァンで数日過ごし、エミール・ベルナールに出会う。
1887年、フランス領マルティニック島へ行くが、そこでひどい病気になる。パリへ戻る。
      ゴッホの弟の画商テオが作品を買い、客を紹介してくれる。テオの兄フィンセントに会う。
1888年、アルルで数か月間、フィンセント・ゴッホと共同生活をする。
1891年、理想の楽園を求めてフランス領のタヒチ島に渡る。タヒチの女性テハーマナと暮らす。
1893年、パリに戻るが、家族に受け入れられず、タヒチで描いた絵と彫刻も売れなかった。
           展覧会では、44点中11点が売れただけだったが、そのうち2点はドガが購入。
1894年、再びタヒチへ。タヒチの女性パウラと結婚、子供も生まれるが死去。
1896年、脚の痛みと鬱病で入院。前妻との長女死去の知らせを受け、失意のどん底へ。
1903年、死去


第2室 初期の作品

日曜画家としてスタートしたゴーギャンは、独学で学んでいた。
 「ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)」 1881年 オスロ国立美術館
中央に置かれた花が主役のように見えるが、後ろ姿の男はゴーギャン、オルガンを弾いているのが妻。
妻の後ろの棚の上にある陶器の置物はゴーギャンの作品だろう。

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「眠っている子供」1884年 個人蔵
色の美しさが目をひく。印象派の時代。大きな木製のジョッキは、ゴーギャンの制作。

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「あら、ここにもドガのバレリーナがあるわよ。どうしてかしら?」と友達が言うので、
ふり返ってみると、ドガの「舞台上のバレエのリハーサル」だった。
絵の傍に、ドガの踊り子に刺激を受けて、ゴーギャンが制作した木彫の箱(扇入れ)があった。

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木彫で制作した2人の自分の子供の横顔を装飾として貼りつけたキャビネット(家具)もあった。
初期の頃の木彫作品で、「パリジェンヌ」という優美なシルエットのものがあり、後のタヒチの
女性の木彫とは大いに異なっていた。


独学のゴーギャンだったが、後半、ピサロに教えを受けた。お互いに描いたデッサン。
左がピサロが描いたゴーギャン、右はゴーギャンが描いたピサロ。
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第3室 ポン=タヴァン 色彩の時代

ゴーギャンは陶器も制作していたので、自作の壺を眺める友人シャルル・ラヴェルを描いた絵
「ラヴェルの横顔と静物」1886年 インディアナポリス美術館


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ゴーギャンは、エルネスト・シャプレの工房で陶芸を始めた。
陶芸家ブラックマンがシャプレを紹介してくれたのだった。
当時、ブラックマンとシャプレは、日本風の陶器に模様を彫り、エナメルで仕上げ、金で輪郭をとる
技法に凝っていた。ゴーギャンは鳥、羊飼いなどブルターニュの自然を取り入れたモチーフを使った。
「鳥(がん)とブドウ、葡萄の葉付きの枝で飾られた花瓶」1887年 サンタモニカ・ケルトン財団
シャプレとの合作。

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エミール・ベルナールと一緒に、マルティニック島からブルターニュに帰った時に制作。
装飾はブルターニュとマルティニックを折衷。
「地上の楽園」 1888年 戸棚101×120×60.5cm  シカゴ美術館

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1886年から度々訪れているブルターニュ地方の小さな村ポン=タヴァンでの生活は、
キャンプのようだったが、ゴーギャンにとっては自然があふfれた憩いの場だった。
当時のブルターニュの人々は、白い頭巾、白い襟の民族衣装を日常着にしていた。

「ブルターニュの3人の少女の輪舞」1886年 ワシントン・ナショナルギャラリー
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そして少年たちは、裸で水浴をしていた。
「ブルターニュの水を浴びる少年」 1888年 ハンブルグ美術館

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この絵には惹きつけられた。大胆な色づかいと構図。水の色と波の様子に日本画を感じた。
「浪間にて」1889年 クリーブランド美術館

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同じモチーフでの木彫に多色塗り、部分部分はクレヨンの塗り
「ミステリアスであれ」 1890年 オルセー美術館

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ゴッホに招かれ、アルルにも出かけた。
「アルルの洗濯女たち」1888年 ビルバオ(スペイン) 美術館
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2016年に東京都美術館で開催された「ゴッホとゴーギャン展」に来ていた
「アルル、葡萄の収穫(人間の悲劇)」1888年も展示されていたが、ブルターニュの衣装の
女性がアルルにいるとの解説だけだった。
ゴッホの耳切り事件のことは、一切書いてなかったので、ゴーギャンの創作活動全般に影響を
及ぼすものでなかったのだろう。


[晴れ][牡羊座]

第4室 「タヒチでの生活」
タヒチでゴーギャンは、14才のタヒチ女性テハーマナと暮らし、彼女をモデルに絵を描いた。
旧約聖書「創世記」、アダムとイブのエデンの園追放の話に興味を持っていたゴーギャンは、
パリで「異国風のイヴ(1890年)」という絵を描いていたが、タヒチに来てから、テハーマナを
モデルに描いた。エヴァはたくましく、色彩は強い。赤い羽根のあるトカゲが蛇の代わり。
リンゴの代りが白い綿毛のような花びらの花。
えーっと、この絵、どこで見たんだったけ?と思ったら、日本でした!
「かぐわしき大地」(テ・ナーヴェ・ナーヴェ・フェヌア) 1892年 倉敷 大原美術館
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1898年に、これを少し変えて、「イヴ」という木版画(和紙を使用)にしたものも展示されていた。


第5室 「タヒチの神話からの作品」

タヒチで長年、口述で受け継がれてきた儀礼の伝統をゴーギャンは絵に表現した。
タヒチの女性たちにつきまとう不気味な死者の霊、左端に死者の霊が見える。

ベットにうつぶせに横たわっているのは現地妻のテハーマナ。
「死霊が見ている(マナオ・トゥババウ)」1892年 バッファロー市・オルブライト=ノックス美術

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「テハーマナの祖先たち(メラヒ・メトゥア・ノ・テハーマナ)」 1893年 シカゴ美術館
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ゴーギャンは、「ノア・ノア」(かぐわしい香り)というタイトルの本を執筆した。
1891年から93年までのタヒチでの日常生活を挿し絵を入れながら記録した本である。
今回、本「ノア・ノア」の実物が展示されていた。

絵を売るためにパリに戻ったゴーギャンだが、絵はあまり売れず、再びタヒチに戻った。
文明社会に侵されていない色彩豊かなタヒチは、ゴーギャンにとって地上の楽園だった。

ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)1894年 エルミタージュ美術館
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この絵は、原始そのものでなく、形が単純化されていて色彩が明るく美しい。
装飾的になってきたのだろう。

陶製のタヒチの女神「オヴィリ」 1894年 オルセー美術館
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ゴーギャンの墓の横には彼の遺志に従い、「オヴィリ」のブロンズ像が置かれている。

 第6室 「自分の装飾で」
1901年、タヒチを去り、マルティニック諸島のヒヴァ・オア島に「快楽の家 (La Maison du Jouir)」
を建てた。
原始的な題材を追い求めたゴーギャンの集大成の家で、玄関口はゴーギャンの木彫で飾られている。
会場に再現したものが作られていた。


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装飾的な手法を追い求めた晩年。豊かな自然をとりいれた大きな絵が最後に展示されていた。
「ルペ・ルペ(果物取り)」 1899年 プーシキン美術館
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世界中の美術館から集めた全部で200点以上の展示は、見応えがあった。
ひとつのモチーフをいろいろに変化させる、木彫にしたり、陶器にしたり、版画にしたり、
という反復のようすが、よくわかる展覧会だった。
この記事を書きながら、ゴーギャンのパワフルな制作意欲に改めて感心した。


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メディチ家の肖像画展 [Paris  展覧会]

昨年末、パリに行った時、ジャックマール・アンドレ美術館で、「メディチ家の肖像画展」
を見た。

16世紀、幾多の戦いを経て、フィレンツェは黄金時代を迎えた。
1569年、メディチ家のコジモ1世が初代トスカーナ大公となった頃は、肖像画が、
広告の役割も兼ねてたくさん描かれた。

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①コジモ1世の妃、エレオノーラ・ディ・トレド(ブロンズィーノ画)
ナポリの副王の娘で、気位が高かった。肖像画からもそれが伝わってくる。
美しいので、この展覧会のチラシ関係は全部これ。
彼女は9人子供を産み、孫がマリー・ド・メディシスである。

①エレオノーラの夫、コジモ1世、40才の時である。(ブロンズィーノ画)
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*写真の真ん中に線が入ってるのは、買った解説冊子を私が2つ折りにしたからです。

② フランチェスコ1世(1541~87)
コジモ1世の長男。妃はハプスブルグ家出身で、2人の間の娘がフランスに嫁ぎ、
ルイ13世の母となったマリー・メディシスである。

少年時代のフランチェスコ(ブロンズィーノとその弟子達画)
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フランチェスコ1世とその妃は宴の後、急死した。死因はマラリアであった。

③フランチェスコ1世の弟のフェルディナンドが次の王となった。
フェルディナンドは政治的に手腕ある王様で、スペインのトスカーナ支配を断ち切り、
フランスと積極的に外交的をし、マリー・メディシスをフランスに嫁がせた。産業振興
にも勤め、対外貿易を活発化させ、善政を行ったので、市民に人気があった。
芸術にも理解が深く、ローマの「ヴィラ・メディチ」はフランチェスコ1世が造らせた。

フェルディナンドの息子 在位期間が短かった。
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マリー・ド・メディシス(1575~1642) (サンティ・ディ・ティト画)
この展覧会で、一番豪華な絵。等身大よりもっと大きい絵。
(全身、足元まである絵だけど、大きすぎてスキャンできなかったのです)

1600年、フランス王アンリ4世との結婚の時。
テーブルの上に置いてある王冠は百合の紋章なので、フランス王家のもの。
衣装の生地には、百合の花に加えて、結婚を祝すカーネーション、多産を意味
するザクロが織り込まれている。金のブレードが華やか。
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この時代に活躍した肖像画家は、ブロンズィーノ、サンティ・ディ・ティトの他に、
ポントルモ、リドルフォ・デル・ギルランダイオ、アンドレア・デル・サルトがいた。

左:アレッサンドロ・アローリ「ディアノラ・ディ・トレド」1565年
一番上の絵、エレオノーラのいとこ。小さな絵だが、着けている様々な宝石を
ラピスラズリも使って描いている豪華な肖像画。
右:リドルフォ・デル・ギルランダイオ「ベールを被った女性」1510年頃
ラファエッロ、ダ・ヴィンチの型の絵。窓の外の景色はフィレンツェ。

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貴族の女性だけでなく、宮廷に仕えている人たちの肖像画も描かれた。
この場合は、手に何かを持っていた。
左:ポントルモ「リュートを弾く人」1529年
右:アンドレア・デル・サルト「本を持つ若い女」1528年

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リュートを弾く人の絵は他にもあったし、犬と一緒だったり、鳥と一緒だったり
の絵もあった。メディチ家は宮廷画家をこれだけたくさん抱えていたのだから、
財力が半端なかった。



コジモ1世より前の時代、
16世紀、偉大なるロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)と呼ばれたロレンツォ・メディチ支配下
のフィレンツェは、美しい町で、芸術と建築が素晴らしく、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ
といった天才を輩出し、世界の中心だった。
↓ ヴェッキオ宮は、1540年にコジモ1世がエレオノーラ妃のために隣にピッティ宮を造るまで、
メディチ家の住居で、フィレンツェのシンボルだった。

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ロレンツォ(1449~92)は宮廷に、ボッティチェリ、リッピ、ミケランジェロらを住まわせた。

ロレンツォ亡き後、跡を継いだ長男ピエロは、政治能力がなく、フランス軍に攻め入られ
フィレンツェを追放になってしまう。
フィレンツェは共和制に戻り、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフランスの後盾を得て
実権を握った。清貧を説くサヴォナローラの執政は初めは歓迎されたが、過度になって
きたため、フィレンツェ市民に愛想をつかされ、ついには火刑となった。

ロレンツォ・イル・マニフィコの夢は、メディチ家から教皇を出すことであった。
マニフィコの次男、ジョヴァンニがレオ10世(1475~1521)となり、バチカン宮廷に
ラファエッロやミケランジェロが集った。
再びフィレンツェは、メディチ家が支配するようになった。
ピエロの息子ウルビーノ公ロレンツォ(1492~1519)は、マキャヴェリに法務官を命じた。
マキャヴェリは、強力な君主によるイタリア統一をロレンツォに提案したが、聞き入れ
られなかった。
マキャベリ (サンティ・ディ・ティト画)

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ウルビーノ公ロレンツォの娘が、フランスのアンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスである。

教皇レオ10世の次の次の教皇、クレメンス7世もメディチ家出身であった。
クレメンス7世は、庶子アレッサンドロ・ディ・メディチ(1510~1537)をフィレンツェ
の統治者として送り込んだ。アレッサンドロの母はメディチ家の黒人奴隷だったため、
彼は色が黒く、イル・モーロ(ムーア人)と呼ばれた。

「フィレンツェの町を眺めるアレッサンドロ」 (ヴァザーリ画) 1534年
絵の中の小さな白い四角は、その部分の説明が参考についていたから。椅子の脚には
フィレンツェのシンボルのライオンが彫られている、というように。

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ヴァザーリは多才で、絵を描くだけでなく、評論も書き、建築に明るかったので、
ピッティ宮の改装も行った。

アレッサンドロは、かなり評判の悪い男だった。そして同じメディチ家のロレンザッチョ
によって暗殺された。(この暗殺事件は芝居になり、ロレンザッチョは、サラ・ベルナール
の当たり役となった。ポスターをミュシャが描き評判になった)

アレッサンドロ暗殺事件は、後に、絵にもなった。
いとこのロレンザッチオに暗殺されたアレッサンドロ・ド・メディチ
Gabriele Castagnola 1865年  230×344cmの大きな絵
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アレッサンドロの暗殺で後継者がいなくなったため、親戚筋のコジモが大公となった。
そして、スペインの大貴族の娘エレオノーラ(一番上の絵)と結婚したのである。

[黒ハート]メディチ家のことは、漫画「チェーザレ」で馴染みがあったので、この展覧会にも
親しみが持てた。
フランスに嫁いだマリー・ド・メディシスがフランスに上陸する時を描いた大きな絵
は、ルーヴル美術館にいつも展示されている。
さらに、カトリーヌ・ド・メディシスの館は、ボージュ広場に今でもあり、浅田次郎が
「王妃の館」という本を書いている。(歴史小説でなく王妃の館を舞台にしただけの
フィクション)


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